置き手紙



 屋根裏部屋の、暗い隅。そこに忘れものをすると、もう手元には返ってこない。
 今までに置き去りにしてしまったものといえば、人形の服、ちびた鉛筆、ビスケットの袋、眼鏡拭き、チューリップの球根、サンドイッチ、キャンドル、腕時計など。全て部屋の暗がりに消えていった。これらが消えてゆく瞬間は見たことがない。けれども自分のものが消えてしまい、二度と戻ってこないということは分かる。
 顎を撫でて髭を引っ張る。思案をめぐらしているときの癖だ。そこへ
「お夕飯ですよ」
 と階下から家内の声が飛んできた。はいと返事をし、細々したものを端に寄せ梯子を下りる。家内がわたしを待っている。下りきって家内に向き直ると、家内はわたしが下りてきた後の屋根裏を見上げ、目を凝らしていた。その肩を叩いて回れ右と促す。家内が、ほほ、と照れたように微笑う。
 何も見えまい。わたしだって見たことがないのだから。
 食事を摂り、また屋根裏に戻る。はっきりとはしないが何となく、部屋からひとつふたつ、モノが欠けた印象がある。それで人形の靴などを数えてみると、足りない。揃いの靴が片方なくなっている。床を這って探しても、ひきだしをひっくり返しても、片方はどこにも見当たらない。片足だけしか靴を履かないのでは人形も歩くのに変だ。脱がせ、脇に置いた。
 数日後にはその靴もなくなった。人形が寂しい足をぶらつかせる。わたしは腕組みをし、首を傾げた。
 失せものをこさえてばかりなのは、わたしが生来うっかりしているからだと思っていた。自分がしたことを覚えておらず、片付けが苦手なのだと。だから失くしてはいけないものは目立つよう机の上に置いたり、明るいところへ仕舞ったりしていた。「ある」と意識していて、きちんと目が届くものがなくなったことはない……今まではそうだった。わたしは最近、また失くしものをしてしまった。大事に食べていたチョコレートを、包み紙ごと失くした。
 トリュフチョコレートだった。ゆっくりいただこうと思って、包みを開いたままに机の端へ置いたことまでは覚えている。家の呼び鈴が鳴ったので梯子を下りた。数十分してから戻ると、きれいになくなっていた。床に転がった跡はない。チョコレートがわたしの口に残っていることもない。いよいよおかしい。もしねずみだったとしても、あまりにあざやかな所業だ。わたしは部屋を見回した。やがて見つけた。机の角、部屋の隅に接した暗い一角。チョコレートの包み紙がぽつんと落ちていた。
 そこは、明かりの届かない怪しい場所だ。突飛なふるまいだと自覚しながら、わたしは角に、あたらしく箱から取り出したチョコレートの包みを置いた。もちろん、目の前で消えはじめはしない。チョコレートはしっかり角に佇んでいた。わたしはチョコレートを置いたことを自然と忘れたかのように振る舞うことにした。
 数日の間、人を屋根裏部屋へ上らせなかった。跳ね上げの梯子を畳んだままにした。
「屋根裏に上がるときは言うようにしておくれ」
 というわたしの願いに、家内は頼まれずとも用がありませんよと言った。
「それより最近はあまり食が進みませんね。これからは、お好きなときに下りてきて召し上がってはいかが」
 家内の提案にわたしは頷いた。

 夜、床に寝転び屋根裏部屋のある天井を眺める。小さな足音が聞こえる、ような気がした。三角形のナイトキャップを被り、眠る体勢でいたわたしは、その足音をかわいらしく思いながら微睡んでいた。とことこ、小さい。せわしなく走り回っている。二本の足で走る音だった。調子は耳に馴染みがある。孫が遊びに来た時のようだ。誰かが屋根裏を走っている。きっとチョコレートの包みを運んでいる最中だ。
 かわいらしいのは結構。しかし、かわいいで済ませていいのだろうか。微笑んでいたわたしの胸中に不安がふと生まれる。
 ねずみでもない小さな二足歩行のいきものが屋根裏部屋にいる。誰だというのだ。
 豆腐に針金を通したような、のっぺらぼうの人型が脳裏によぎった。乾いた関節。床を跳ねる足裏は、鉛筆のような硬さがある。貧弱な体と、つりあいの取れていない大きな頭を振り、転びそうになりながら走る。床の上を壁沿いに、ぐるりと。道中、机の上によじ登り、通り抜けがてら置かれているものに気づく。やわらかく粘着質な手でそれを触り、抱えて、一目散に巣穴に走る。屋根裏部屋に穴はないはずだが、暗がりという暗がりが巣のようなもので、駆けているうちに、すうっと姿が消えてゆくのだ。あるいは衝突した壁の裏に、崩れるようにして吸収される。腕に抱えていたものは取り残されつつも、最後には壁の裏へ引きずりこまれる。
 わたしは体を起こした。ナイトキャップが頭からずれる。掛け布団の上にぽとりと落ちる。足音はまだしっかり聞こえていた。
 起き上がったわたしは急に妄想から醒めて、音が屋根裏部屋から聞こえるとは限らないと思い直した。小さな音は家全体、窓の外からも聞こえていた。
「……雨か」
 いつの間にか降っていたようだ。時計は深夜を指している。寝静まった家に、雨音がせわしない。わたしが小さないきものと思ったのは勘違いで、至って自然のものだった。夢心地だったのだ。だからわたしの他に起きているものが屋根裏部屋にいて、わたしのチョコレートを運んでいるという妄想が生まれた。もの忘れに摩訶不思議な夢を被せていた。チョコレートは依然と残っているだろう。わたしは布団から出て、できるだけ音を立てないように気をつけながら梯子を下ろし、屋根裏部屋を覗いた。
 屋根裏部屋は雨天に珍しく、明るかった。小窓から月光がさしている。外では雨が降っているが、雲の間から月が顔を出しているらしい。灯りを点さずとも、暗がりに慣れた目で部屋の様子が伺えた。狭い屋根裏だ。机とひきだし、季節外の服と古いトランク。数えるのは簡単だ。わたしは机の上を見た。散らかしたままの鉛筆、老眼鏡、伏せた本。そして角には——おや、おや、おやまあ。
「律儀だこと」
 わたしは呟いた。
 小さないきものは屋根裏に住んでいた。わたしがチョコレートを置いていった場所には、三ツ葉が御礼とでもいうかのように束ねられていた。

 机の角にちょっとしたものを置くことが習慣になった。ものは必ずしもすぐにはなくならず、ふと思い出した頃に机の角から消えていった。わたしは面白がってものを置いた。
 角砂糖、ボビン、千代紙の切れ端、鳥の羽、飴を包んでいたセロファン、切手、ミニチュアのマグカップ。指で摘めるくらいの小さなものたち。これらを置いておくと、何回かにいっぺん、お返しがある。
 桑の実、輪になった糸、硝子の破片、虫の足、たんぽぽの綿毛、薔薇の花びら。貰ったものは空き箱に詰めて大事に保管した。ただし死骸を除いて。
 ある日、お返しにしては見慣れないものが角にあった。うすく平べったく、几帳面な直線。葡萄を絞ったようなまだら模様の小さな便箋だった。親指の先くらいしかない。ピンセットを使って封を開けると、手紙が入っていた。
 潰れた線はおそらく文字だ。しかし何と書かれているのか読み解けない。それでも手紙を貰ったことで、わたしの胸はくすぐられた。いそいそと、貰った便箋と大きさを揃えて紙を切り、言葉少なに返事を認める。
『おてがみをありがとう。たいせつにします』
 のりで封をし、机の角へ。
 最近、家内と顔を合わせていない。互いに自由に暮らしている。内緒事が増えたなと思った。

 数日後にわたしの手紙は回収された。それからしばらく、角に新しくものが置かれることはなかった。一ヶ月、二ヶ月と季節は秋から冬にうつろい、冷たい風が首筋を掠めるようになった。気まぐれな妖精に手紙を書いたのだ。返事は期待しないようにしよう。のんびり気長に構えていた。けれども日々強まる凍える風が、わたしの心に寂しさを仕立てていった。もしやあの葡萄色の手紙は別れの挨拶だったかもしれないと、読めもしない手紙を再び開く。紙をくるくる回して色々な角度から読もうと試みるが、やはりそれはどう見ても潰れた線で、意味は計り知れなかった。
 冬用の厚い羽織を肩にかけて、持ち込んだストーブの前に丸まり屋根裏部屋で過ごす。毛足の長いハギレを机の角に丁寧に畳んで置いておいたが、そのハギレは角に置かれたままだった。
 昨年の冬もこうだっただろうか。思い出せない。一年中、失くしものをしていたような気がする。今のわたしは、失くしものをしていないということに不安を覚え、文通相手の身を案じていた。

 冬は過ぎていった。ストーブを点ける日が減り、土まわりが賑わいはじめる。枯れ枝の先に萌黄の蕾がふくらむ。梅の香りが鼻に届いても、わたしはいまいち春の予感にぴんと来ないまま、失くすために置いてきた細々したものを思い返していた。
 桜が散りはじめ、風の強い日には開けた窓に花びらが届く。妖精は引っ越しをしたのかもしれない。思い出は静かに仕舞おう。柏餅を片手に屋根裏部屋に上った。机の前に座る。小窓に桜の花びらが張り付いているのを、頬杖をついて眺める。溜め息。目を伏せた先に暗がりがある。ちらと角を見たとき、わたしの柏餅を食べようという気持ちは消し飛んだ。ハギレに封筒が挟まっていた。
 あわれ、柏餅は投げ出された。餅が葉に包まれていることが役に立ったことは今ほどない。私は手のひらを擦り、封筒を摘まんだ。檸檬色の鮮やかな封筒はふっくらと固い。そっと封を切る。中には手紙と、桃色のつるりとした貝殻が入っていた。手紙に書かれた文字らしきものは相変わらずくしゃくしゃで読み解けない。しかし、以前と比べて線と線の間に隙ができたような気がした。笑みがこぼれる。
 心待ちにしていた手紙だ。貝殻の色は、春の花の色に合わせたのかもしれない。貝殻はあたたかく輝いていた。

 春一番の手紙から、わたし宛の小さな封筒が机の角へ、荒々しい波のごとく打ち寄せるようになった。一通どころか、ときには三、四通の手紙の束が置かれている。わたしはその一通一通に返事をするように、内容が分からないながらも手紙を書き続け、また小さな贈りものも忘れずに添えた。手紙の文字はそれぞれに癖があり、どうも送り主はひとりではないように感じられた。本当のところは分からない。豆腐のような手がひとつの体から何本も伸びて、ぺとし、ぺとし、と自由に紙の上を這いずった結果なのかもしれないのだから。
 手紙に書かれた文字は、便りを重ねるほどにだんだんと直線が現れ、余白のある丸みを帯びていった。その形はわたしが書く手紙の雰囲気に似てきていた。糸くずのようだった文字の塊の最後に、消し損ねたような句読点が加わり、頭には挨拶らしい短い糸くずがみられるようになった。並べてみれば、わたしの手紙も独特の調子でまとまった絵柄。穴だらけなうえに緻密さに欠ける。形の意味を知らないでいれば、ただの線。
 わたしは相変わらず妖精と何について喋るために手紙をやりとりしているか分かっていない。手紙には、丸の図形が描かれただけのもの、とりどりの紙が数枚はいっているものなど、必ずしも文字らしきものが綴られているわけではなかった。しかし言葉のやりとりがなくとも、ただ色のうつくしい紙に思うことを書き、そして同じような手法で相手から送り返されるということは心地よかった。
 今日の封筒は三通だ。藍色の封筒には、あさがおの種が入っていた。柿色の封筒を開けると、透明なセロファンが四つ折りで入っていた。最後に、金の縁取りの封筒を開けた。水に溶けてしまいそうなくらいうすく滲んだ色合いの上に、金色の糸が連なっていた。糸は馴染みのある文字の形をしていた。
『おいでますか』
 蔓を伸ばすような奇妙な形は、あまりに人間的な文言にくねっていた。勘違いではない。模様がたまたま文字らしくなったのかと思った。しかしそんな疑いを、さっとひと掃きで消してしまえるほど、糸は文字として表れていた。紙を傾けると、全体が真珠色に照った。わずかな光源しかない部屋の中で静かだった。糸の名残がある。じっと丹念にのばしたかのように、紙全体に伸びていた。机の前で背中を丸め、手紙を凝視する。あるのはその文言のみだった。糸がその端から紙をはがれ、漂い、わたしの指先と目の間で浮き上がる。部屋の角の薄暗がりがゆっくり広がってきていた。卓上照明の灯りが届かない場所の中心は、濃い暗がりがぼんやりとした口を開けている。その暗がりの奥で影のようなものが蠢いているようだった。影は絵本で知った妖精とは違った。尖った鼻もなければ巻毛もなく、背中に羽もない。捉えどころのない黒々としたシルエットだった。壁に重なって濃淡を纏い、その中心は、封筒と同じ夢のような虹色をたたえて見える。枝が落とした影のように、四肢を部屋中に広げている。揺れていた。わたしの目は手紙に注がれていたにも関わらず、その姿をはっきり見た。窓を開けていないのに、頬を撫でていったと感じた。
 やがて暗がりに包まれた屋根裏で、おもむろにペンを握る。わたしはこれから、二通の手紙を、書く。