卓上に聞き耳
煤けた机の上にミルクが一杯、パンが二枚、合計して三つの腹を空かせた食材が、寄り集まっている。
パンがぱさついた口を開いた。生存のために身を捧げることにしよう、と言った。
「種の多様性のために、この身を二人に捧げます。先のことを放任するようで申し訳ない。どうか生き延びてください」
さらに言うことには
「せっかくなら少しでもおいしくなりたい、嵩も増えることだし……」
と、ミルクに浸されることを望んだ。そして、じゅるじゅると二つの口に吸われて逝った。
沈黙が、ミルクと残ったパンの間に、訪れた。
パンは、ミルク漬けになったパンの残骸と、しっとり潤った自分の体とを見比べた。ミルクの冷たい硝子の体に寄りかかり、深く考え事に沈んだ。
時計の針が回る。
月光は机の上を忍び足で歩いた。
しばらく、しばらく……
ミルクが震えている。
ひとりで、ぺろぺろと一滴ずつ自分を舐めながら
「──僕がおいしいんじゃない、僕じゃない」
と卓上の崖っぷちに立って泣いている。その背後には、パン屑が散らばっていた。
机の脚の近くには角砂糖が転がっている。角がごっそり欠けている。半壊の面に、真っ白な粒が詰まっている。床を転がったらしい角砂糖の表面は、本来の白さに比べ、薄汚れて灰色がかっている。糸屑や埃もくっついている。それでも四角四面であった頃の落ち着きが変わらずあった。
そこへ、ぽちゃり、と天から乳白色の滴が落ちてきて、床で跳ねた。
途端、角砂糖はわななきはじめた。
──あああ、あ、ああ。あああ、ああ!
細かに震え、角砂糖は既に欠けていた部分から溶けるように崩れはじめた。みるみる小さくなりながら、角砂糖だった粒は叫び続け、声の波が円形に広がった。細かな結晶がぴちぴちと床で跳ねる。それを見るや、乳白色の滴が一斉に身をのりだし、次から次へと角砂糖の近くに飛び降りた。やがて角砂糖の叫び声は聞き取れないくらいにかすみ、途絶えた。
水滴は角砂糖が黙ってしまった後も、撒かれた円を蹴散らして、また大きな雫が弾けた。
わずかに開いている戸棚の奥では、大量の大豆、大漁のにぼしがにぎやかに会合を開いている。上段では萎びかけの蜜柑がひとつ、静かに寛いでいる。にぼしが大豆に向かってかさかさと喋った。
「なんだか分からないのだけれどねえ、これも分からないことなのだねえ。毎日、友達がどっかに行っちゃうんだよねえ。なんでだかなあ、なんでだか。きみんとこはそういうのある?」
これに大豆は
「あるよ。それは僕らもおんなじだ。家族がどっかに行っちゃって、いとこも、はとこも、みんな一斉に」
と返した。
「やっぱりそうかい」
「でも、おたくみたいに毎日ではないね」
「ふうん。おかしいねえ」
にぼしはエラのあたりから頭を捻ってみようとして、もう充分に全身が捻られていることを思い出し、やめた。
「寂しいんだけど涙もでなくなって久しいよ。これが、感情が死んだってやつかね」
とにぼしは溜息をついた。にぼしに問いかけられた大豆は真剣な顔で、その場にいるきょうだいと丸い頭を突き合わせた。そして出した結論は
「いちど心療内科に行ってみたらどうかな」
とにぼしに勧めることだった。とある大豆の一粒は
「ぎろぎろしたカドが取れたら、足りない頭も補えることがあるのでは」
と、にぼしの曲がった体を一瞥し、呟いた。
にぼしたちの中には、胴だけで微動だにしない者が混じっていた。にぼし達は目立つ彼らを意に介さない。大豆は揃って丸い。いくら首を回しても一周して元に戻るばかりである。
大豆の提案に、にぼしたちは各々乾き、捻れて口を開け、濁った白眼の険しい顔で、縦に直立したり横に寝そべったり、角度をつけて尾ひれを踏んじ張って考え込んだ。
いよいよ、にぼしが硬直し動けなくなりそうになったその時、脈絡もなくとつぜんに、彼らの頭上でしわがれた叫び声があがった。上を見ることができるものたちは全員が上を見た。視線の先には棚板がある。
「生々しい声だ」
「そうだねえ」
大豆とにぼしの声は淡泊だった。
にぼしはその日、またしても数匹が帰らぬ魚となった。
夜中にこそこそと喋る声がある。
トースターの周りに、焼け焦げた食材から剥がれたカスもカス、パンくずが焦げたコーン粒に文句を言っている。
「半ナマのお前さまが、わたしらの周りをごろごろすると、わたしらは潰されてしまうのよ。お前さまがひと回転するだけで、巻き込まれてしまうのよ」
「はい、すみませんでした。うっかり転がりましたばかりに」
「すみませんでしたでは済まない。ほら、お前さまのその右脇のところ。見せびらかしも大概にして、わたしに返しなさい。おいお前、帰ってこい。なんだ、黙ったままで。ちょっと引っかけられてすぐなびいてしまうなんて。イイ気分になっているのか。はしたない」
「ははあ、こちらがお大事な方ですか。いや、これは僕の一部でして。ここだけマヨネーズからはみ出していたので、焦がされましたものです」
「なに? じゃ、わたしの連れはどこに行ったという。お前さまが近所のくずを、しっとりしたところで吸い上げるのを、わたしは見ていた。体にくっつけて、たくさん焦がしていたところを」
「いいえ、違いますとも。それは全く別のお話で。僕は乾いていたのです。触れることなど出来ません」
「わたしの連れはすすんでお前さまにくっついたと言うのか!」
パンくずがいきりたった。
周囲のパンくずも、わあわあ叫びだした。しかしあまりに小さな口でものを申すので、どれが何を主張しているのか散乱している。コーン粒はかつてより、ひとまわりも小さく萎び、端は黄色い透明な樹脂のように硬くなってきていた。腹にくっきりと乾いた皺が刻まれている。取りこぼされたばかりに、理不尽に喧嘩をふっかけられ、疲れていた。周囲にはパンくずばかりだ。肩をもつ者はいない。
いよいよコーン粒が流れることのない涙をこぼしそうに体を折った時だった。べろり、と湿った舌がコーン粒を舐めとった。続けてトースターの周りを薄くて大きな舌がちゃっちゃと舐め上げた。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル。コーン粒は辿るべくしてあった運命、胃の場所こそ違えど、数時間前の同胞が通った同じ運命へ送られた。
黒ずんだガスコンロを凝っと、マシュマロが見つめている。
カチッ……チチチ……
火が点く。円陣を組んでいる青い火は、片手鍋の下で低頭した。マシュマロは火の前で腹のあたりをしわしわと揉んでいる。何かを躊躇っているようだった。
戸棚から串がやってきて、マシュマロの側で止まった。
「ああ……」
とマシュマロは深く甘い溜息を吐きながら串を手に取った。白い首に串の先をチクリと立てる。そのまま突き刺しそうだったが、マシュマロはまたも深く息を吐き、
「こんなことをしてはだめ」
と串を放ってしまった。
「どうしてだい」
一部始終を片手鍋の下から覗いていた火が、マシュマロに声をかけた。マシュマロはお尻を卓上にぺったりとつけて、火を見ることもなく言った。
「だって、これに身を委ねてしまったら……」
「しまったら?」
と火が繰り返す。片手鍋の底から身を乗り出している。いくつかの視線に当てられて、マシュマロはちらりと火を横目で見たが、すぐに顔を伏せた。
「……焦がされてしまうから」
マシュマロはむっちりとした体をよじった。片手鍋の湯が沸騰した。そこへにぼしと乾燥わかめが「うるおう!」と小さな歓声をあげて湯に飛び込んだ。火はその叫びも水しぶきも意に介さず、ひたすらに熱い視線をマシュマロへ送っていた。
「こっちにおいで」
「そんなこと。溶けてしまう。嫌よ……」
「近づきすぎなければ大丈夫。むしろ、かたく乾くはず。だから恐れず、串ごと飛び込んでおいで」
「でも」
湯がふきこぼれそうになり、火はひゅっと片手鍋の下に潜った。それを追うように、マシュマロは身をのりだした。
「でも……」
うなだれているマシュマロの両脇を人の指が摘まんだ。マシュマロが次に顔を上げたときには、マグカップの底にいた。インスタント珈琲の粉末が降り注ぐ。マシュマロは咳き込んだ。そこへ水も降ってきた。足下に溜まり、やがて体が浮く。マシュマロはマグカップのふちに身を寄せた。すっかり混乱していた。
マグカップは電子レンジへ運ばれた。五百ワットで一分三十秒。分子の震える音がする。湯気が立ち、苦みばしった珈琲の香りが漂う。マシュマロは、ぽかんとした顔でひっくり返った。
「ああ……わたしじゃないものが……喉元まで……」
珈琲がマシュマロの腰を抱いた。じゅう、と窄まる。くるくる回る渦の中心で、マシュマロは体を歪ませて笑った。
マグカップが丸い竹籠の横に置かれた。籠の中に林檎と蜜柑がいる。
「ほんの一ヶ月前までは、一本の木にたくさんの僕が実っていましたよ。あの頃の僕らは、赤く丸くて、金色の線がお尻から頭に向かい、たっぷり伸びていました。今も名残があります」
林檎は尻を浮かせた。蜜柑はその尻を見、自分の尻も見た。林檎よりも黄色くて《いい》色をしている。林檎の黄色い筋はまばらだった。蜜柑は自分がかつて青い尻をしていたことを棚に上げて、自分がいかに鮮やかな色に染まったかを誇るように胸を張っていた。林檎は蜜柑が黄色い筋を目視したことを見届け、話を続けた。
「ああ懐かしい日々。葉の下に横顔が隠れても、僕は僕がどう隠れているかよく分かりました。頭の先から伸びる枝が、僕らが感じる風や日差しのあたたかさを全て束ねていました。あなたもそうでしょう? 僕らは似たように枝に実って育っています。もう、僕の片割れたちがどうしているかを知ることはできませんが、別れは運命だったのです」
蜜柑は頷いた。籠に二つきりになってから三日は経つ。柿がいた頃は、柿が林檎の話し相手をしていた。蜜柑は黙ってふたつの会話を聞いているだけだった。柿のパツパツに張った均一な皮をうらやましげに見ていた。蜜柑の肌は多少凹凸があるので、同じような橙色の肌が並んでいると、柿が最も艶やかに照った。柿は日に日にやわらかく熟した。たるみはじめた皮もまた、にじむような蜜で艶を増し、とても美しかった。
蜜柑は林檎が籠の外を眺めてぼんやりし始めたところでようやく、自分が喋る番であることに気付き、口を開いた。
「もう我々はあの頃には帰れませんね。それだけは分かります。我々はどうなるのでしょう。柿が我々に別れを告げたあと──あちらのほうから、柿の声が聞こえた気がするのですが、あなたは聞こえましたか」
「いいえ。僕は何も」
と林檎が話を遮るように答える。
「そうですか」
「木々の軋む音でしょう」
なかば自分に言い聞かせるように、林檎は苦しげに言った。蜜柑は黙った。
「おや」
林檎が頭上を見上げて声を漏らした。ぺたり、と人の手が蜜柑の頭に触れた。蜜柑は身を強張らせた。頭頂部を揉まれている。人の手はしばらく蜜柑の頭を撫でていたが、すっと手を引き、隣の林檎を鷲摑みにした。
「おおっ」
と林檎が歓声をあげた。蜜柑の目の前で林檎の体が浮き、透明なビニル袋に放り込まれた。
「懐かしいビニル!」
林檎のくぐもった声が柿の元に届いた。
彼はなんでも懐かしさに結びつけすぎる、と柿は思った。きっと、どんな袋に詰められても、懐かしい閉塞感だと言ってはしゃぐだろう。
去った林檎の声はもう聞こえない。蜜柑は耳をすませた。下の方がなにやら騒がしい。ほっと息を吐いた。蜜柑は籠の中で転がって顔に皺を寄せ、体を甘く寛がせた。
ビニル袋に入れられて、はじめこそ機嫌よく林檎は笑っていたが、今は顔色が悪い。
人の手はビニル袋の口を捩じって閉じた。林檎はかつて日差し除けのビニルを被せられたり、木箱に詰められたりと、暗所には慣れていた。しかしいつでも誰かしらと一緒だった。ひとりで詰められるのは初めてだった。
袋に詰められたということは、また太陽の当たる場所に連れていかれるのだろうかと林檎は期待していた。
だが林檎の予想は外れ、冷蔵庫の中へと放り込まれた。
戸が閉められると庫内は真っ暗になった。どこよりも涼しく、静かだった。目が慣れてくると、自分の周囲にあるものたちの黒い輪郭が見えてきた。新入りが入ってきても、このものたちは黙っていた。
「こんにちはみなさん」
林檎はビニル袋の中から当てずっぽうに挨拶をした。数段下から小さな咳払いが聞こえた。
「……」
返事はない。尻の下のビニルをいじいじと踏んで鳴らす。すると隣から
「こんにちは……こんにちは……」
と声がした。声はいくつもの細い管から発せられており、ところどころ空気が抜けて言葉が重なっていた。
「ああよかった。僕、ここが初めてで、心細かったんです」
と林檎は言った。
「ええそう……はじめは誰でも……。おやすみなさい……皆がそうします……眠っても眠らなくても……」
ひとつの体から発せられる声が重なっていた。消えそうな声だった。喉がすっかり潰れているようだった。
「眠るのですか? うん……、僕はまだ、そのうちに」
と林檎は言ってから、そのうちにがすぐ来ることを悟った。あちこちから寝息が聞こえる。
林檎の体は徐々に冷えた。隣にいるものの寝息が聞こえてくる。かすかに寝苦しそうである。息が細い。
誰が自分に返事をしてくれて、名乗りもせずに寝入ってしまったのか、林檎には分からなかった。しかしそれも、眠るなら大して問題ないことだと思うことにした。
ビニル袋がしおしおと林檎の体に被されば、林檎は宥められてビニルにくるまり、目を閉じた。木に花として咲いていた頃、蜜蜂たちが訪れ、さんざめく日々……眼裏には葉の緑も鮮やかに、日差しの色がきらきらと輝く。
冷蔵庫は時折、ブーンという低い音を鳴らして震えた。その震えに、言葉はなかった。