卓上に聞き耳
聞こえる。あちらの煤けた机の上からだ。
ミルクが一杯、パンが二枚、合計して三つの腹を空かせた食材が、寄り集まっている。
パンがぱさついた口を開いた。生存のために身を捧げることにしよう、と言った。
「種の多様性のために、この身を二人に捧げます。先のことを放任するようで申し訳ない。どうか生き延びてください」
さらに言うことには
「せっかくなら少しでもおいしくなりたい、嵩も増えることだし……」
と、ミルクに浸されることを望んだ。そして、じゅるじゅると二つの口に吸われて逝った。
沈黙が、ミルクと残ったパンの間に、訪れた。
パンは、ミルク漬けになったパンの残骸と、しっとり潤った自分の体とを見比べた。ミルクの冷たい硝子の体に寄りかかり、深く考えているようだった。
時計の針が回る。
月光は机の上を忍び足で歩いた。
ミルクが震えていた。
ひとりぼっちで、ぺろぺろと一滴ずつ自分を舐めながら
「──僕がおいしいんじゃない、僕じゃない」
とパン屑の前で泣いていた。
戸棚をあけると大量の大豆、大漁のにぼしがにぎやかに会合を開いている。上階では萎びかけの蜜柑がひとつ、静かに寛いでいる。にぼしは、大豆に向かってかさかさと喋った。
「なんだか分からないんだけどねえ、毎日、友達がどっかに行っちゃうんだよねえ。なんでだかなあ、なんでだか。きみんとこはそういうのある?」
これに大豆は
「あるよ。それは僕らもおんなじだ。家族がどっかに行っちゃって、いとこも、はとこも、みんな一斉にごっそりだ」
と言った。
「やっぱりそうかい」
「でも、おたくみたいに毎日ではないね」
「ふうん。おかしいねえ」
にぼしはエラのあたりから頭を捻ってみようとして、もう充分に全身が捻られていることを思い出したのか、やめた。
「寂しいんだけど涙もでなくなって久しいよ。これが、感情が死んだってやつかねえ」
とにぼしは溜息をついた。にぼしに問いかけられた大豆は真剣な顔で、その場にいるきょうだいと丸い頭を突き合わせた。そして出した結論は
「いちど心療内科に行ってみたらどうかな」
とにぼしに勧めることだった。とある大豆の一粒は
「ぎろぎろしたカドが取れたら、足りない頭も補えることがあるのでは」
と、にぼしの曲がった体を一瞥し、皮肉っぽく呟いた。
にぼしたちの中にはまれに、胴だけで微動だにしない者が混じっていた。目立つ彼らを意に介さないことが、大豆には不思議に思えたのかもしれない。大豆は揃って丸い。いくら首を回しても一周して元に戻るばかりで、理解できないこともこの世にはあることを認めなければならない。
大豆の提案に、にぼしたちは各々、乾き捻れて口を開け、濁った白眼の険しい顔で、縦に直立したり横に寝そべったり、角度をつけて尾ひれを踏んじ張って考え込んだ。
いよいよ、にぼしが硬直し動けなくなりそうになったその時、脈絡もなくとつぜんに、彼らの頭上でしわがれた叫び声があがった。上を見ることができるものたちは全員が上を見た。視線の先には棚板がある。
「生々しい声だ」
「そうだねえ」
大豆とにぼしの声は乾ききっていた。
にぼしはその日、またしても数匹が帰らぬ魚となった。
この配分なら、上階に言及していられるのは、もって数日だろう。
椅子の脚の側に、角砂糖が転がっていた。机の上から飛び降りたらしい。角砂糖は落ちたときの衝撃のせいで、角がごっそり欠けていた。半壊の面に、真っ白な粒が詰まっている。床を転がった角砂糖の表面は、本来の白さに比べ、薄汚れて灰色がかっていた。糸屑や埃もくっついている。それでも満ち足りた落ち着きが、角砂糖にはあるようにみえる。
そんな角砂糖の近くに、ぽちゃり、と天井から一雫の水滴が落ちてきて、床で楽しげに跳ねた。
途端、角砂糖はわななきはじめた。
──あああ、あ、ああ。あああ、ああ!
あまりにも震えるので、角砂糖は既に崩れていた部分から溶けるように崩れはじめた。みるみる小さくなりながら、角砂糖だった粒は叫び続け、声の波が円形に広がった。細かな結晶がぴちぴちと床で跳ねる。それを見るや、天井にいた水滴が一斉に身をのりだし、次から次へと角砂糖の近くに飛び降りた。やがて角砂糖の叫び声は聞き取れないくらいにかすみ、途絶えた。
水滴は角砂糖が黙ってしまうと、もっと、と言わんばかりに、撒かれた円を蹴散らすよう、また大きな雫で弾けようとするのだった。
夜中にこそこそと喋る声があった。乾いた声だ。かすかだけれども、大勢いる。
トースターの周りが賑やかだった。焼け焦げた食材から欠け落ちたカスもカス、パンくずが焦げたコーン粒に文句を言っていた。
「半ナマのお前さまが、わたしらの周りをごろごろすると、わたしらは潰されてしまうのよ。お前さまがひと回転するだけで、巻き込まれてしまうのよ」
「はい、すみませんでした。うっかり転がりましたばかりに」
「すみませんでしたでは済まない。ほら、お前さまのその右脇のところ。見せびらかしも大概にして、わたしに返しなさい。おいお前、帰ってこい。なんだ、黙ったままで。ちょっと引っかけられてイイ気分になっているのか。はしたない」
「ははあ、こちらがお大事な方ですか。いや、これは僕の一部でして。ここだけマヨネーズからはみ出していたので、焦がされましたものです」
「なに? じゃ、わたしの連れはどこに行ったという。お前さまが近所のくずを、しっとりしたところで吸い上げるのを、わたしは見ていた。体にくっつけて、たくさん焦がしていたところを」
「いいえ、違いますとも。それは全く別のお話で。僕は乾いていたのです。触れることなど出来ません」
「わたしの連れはすすんでお前さまにくっついたと言うのか!」
パンくずがいきりたった。
周りのパンくずも、わあわあ叫びだした。しかしあまりに小さな口でものを申すので、どれが何を主張しているのか聞き取れない。コーン粒はかつてより、ひとまわりも小さく萎び、端は黄色い透明な樹脂のように硬くなってきていた。腹にくっきりと乾いた皺が刻まれている。取りこぼされたばかりに、彼は理不尽に喧嘩をふっかけられ、疲れているようだった。周囲にはパンくずばかりだ。肩をもつ者はいない。
いよいよコーン粒が流れることのない涙をこぼしそうに体を折った時だった。べろり、と湿った舌がコーン粒を舐めとった。トースターの周りを薄くて大きな舌がちゃっちゃと舐め上げる。キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルだ。コーン粒は辿るべくしてあった運命、胃の場所こそ違えど、数時間前の同胞が通った同じ運命へ送られた。
ガスコンロをじっと、マシュマロが見つめていた。
カチッ……チチチ……
火が点く。円陣を組んでいる青い火は、片手鍋の下で低頭した。マシュマロは火の前で腹のあたりをしわしわと揉んでいる。何かを躊躇っているようだった。
戸棚から串がやってきて、マシュマロの側で止まった。
「ああ……」
とマシュマロは深く甘い溜息を吐きながら串を手に取った。白い首に串の先をチクリと立てる。そのまま突き刺しそうだったが、マシュマロはまたも深く息を吐き、
「こんなことをしてはだめ」
と串を放ってしまった。
「どうしてだ」
一部始終を片手鍋の下から覗いていた火が、マシュマロに声をかけた。マシュマロはお尻を卓上にぺったりとつけて、火を見ることもなく言った。
「だって、これに身を委ねてしまったら……」
「しまったら?」
と火が繰り返す。片手鍋の底から身を乗り出している。いくつかの視線に当てられて、マシュマロはちらりと火を横目で見たが、すぐに顔を伏せた。
「……焦がされてしまうから」
マシュマロはむっちりとした体をよじった。片手鍋の湯が沸騰した。そこへにぼしと乾燥わかめが「うるおう!」と小さな歓声をあげて湯に飛び込んだ。火はその叫びも水しぶきも意に介さず、ひたすらに熱い視線をマシュマロへ送っていた。
「こっちにおいで。どんなふうになってもステキだ」
「そんなこと。だって溶けてしまう。嫌よ。怖いの……」
「近づきすぎなければ大丈夫さ。むしろ、かたく乾くはず。だから恐れず、串ごと飛び込んでおいで」
「でも」
湯がふきこぼれそうになり、火はひゅっと片手鍋の下に潜った。それを追うように、マシュマロは身をのりだした。
「でも……できない」
うなだれているマシュマロの両脇を人の指が摘まんだ。マシュマロが次に顔を上げたときには、マグカップの底にいた。インスタント珈琲の粉末が降り注ぐ。マシュマロは咳き込んだ。そこへ水も降ってきた。足下に溜まり、やがて体が浮く。マシュマロはマグカップのふちに身を寄せた。すっかり混乱している。
マグカップは電子レンジへ運ばれた。五百ワットで一分三十秒。分子の震える音がする。湯気が立ち、苦みばしった珈琲の香りが漂う。マシュマロは、ぽかんとした顔でひっくり返っていた。
「ああ……わたしじゃないものが……喉元まで……」
珈琲がマシュマロの腰を抱いた。じゅう、と窄まる。くるくる回る渦の中心で、マシュマロは体を歪ませて笑った。
「ほんの一ヶ月前までは、一本の木にたくさんの僕が実っていましたよ。あの頃の僕らは、赤く丸くて、金色の線がお尻から頭に向かい、たっぷり伸びていました。今も名残があります」
林檎は尻を浮かせた。蜜柑はその尻を見たが、自分の尻も見た。林檎よりも黄色くて《いい》色をしている。林檎の黄色い筋はまばらだった。蜜柑は自分がかつて青い尻をしていたことを棚に上げて、自分がいかに鮮やかな色に染まったかを誇るように胸を張っていた。林檎は蜜柑が黄色い筋を目視したことを見届けただけで満足したのか、歌うような声で話を続けた。
「ああ懐かしい日々。葉の下に横顔が隠れても、僕は僕がどう隠れているかよく分かりました。頭の先から伸びる枝が、僕らが感じる風や日差しのあたたかさを全て束ねていました。あなたもそうでしょう? 僕らは似たように枝に実って育っています。もう、僕の片割れたちがどうしているかを知ることはできませんが、別れは運命だったのです」
蜜柑は頷いた。籐編みの籠に二つきりになってから三日は経つだろうか。柿がいた頃は、柿が林檎の話し相手をしていた。蜜柑は黙ってふたつの会話を聞いているだけだった。柿のパツパツに張った均一な皮をうらやましげに見ていた。蜜柑の肌は多少凹凸があるので、同じような橙色の肌が並んでいると、自分にないその面の皮が眩しく見えたのかもしれない。林檎が柿に夢中になったのも無理はない。柿は魅力的だった。日に日にやわらかく熟し、たるみはじめた皮は、にじむような蜜で艶を増し、とても美しかった。
蜜柑は林檎が籠の外を眺めてぼんやりし始めたところでようやく、自分が喋る番であることに気付き口を開いた。
「もう我々はあの頃には帰れませんね。それだけは分かります。我々はどうなるのでしょう。柿が我々に別れを告げたあと──あちらのほうから、柿の声が聞こえた気がするのですが、あなたは聞こえましたか」
「いいえ。僕は何も」
と林檎が話を遮るように答える。
「そうですか」
「木々の軋む音でしょう。柿の声のはずがない。あんな大きな声を柿は出せませんよ。あのように喉を裂くような……人の手は、僕らを大切に扱ってくれるはずです。今までもこれからも」
なかば自分に言い聞かせるように、林檎は深刻な声色で言った。蜜柑は黙った。林檎の考えは楽観的だ。
「おや」
林檎が頭上を見上げて声を漏らした。ぺたり、と人の手が蜜柑の頭に触れた。蜜柑は身を強張らせた。頭頂部を揉まれ、落ち着かなげにしている。人の手はしばらく蜜柑の頭を撫でていたが、すっと手を引き、隣の林檎を鷲摑みにした。
「おおっ」
と林檎が歓声をあげる。蜜柑の目の前で林檎の体が浮き、透明なビニル袋に放り込まれた。
「懐かしいビニル!」
林檎のくぐもった声が聞こえる。
彼はなんでも懐かしさに結びつけすぎる。きっと、どんな袋に詰められても、懐かしい閉塞感だと言ってはしゃぐだろう。
連れ去られた林檎の声はもう聞こえない。蜜柑は耳をすませている。下の方がなにやら騒がしい。ほっと息を吐いた。お喋りが出来そうになくとも、誰かの存在を感じて安心するのは、実のなる木の果実の習性なのだろう。
蜜柑は籠の中で転がって顔に皺を寄せた。体を甘く寛がせているようだった。
ビニル袋に入れられて、はじめこそ機嫌よく林檎は笑っていたが、今は不安がっていた。
人の手はビニル袋の口をねじって閉じてしまった。林檎はかつて日差し除けのビニルを被せられたり、木箱に詰められたりと、暗所には慣れていた。しかしいつでも誰かしらと一緒だった。ひとりで詰められるのは初めてだろう。
袋に詰められたということは、また太陽の当たる場所に連れていかれるのだろうかと林檎は期待したかもしれない。
だとすれば、林檎の予想は外れた。冷蔵庫の中が新しい居場所だった。
戸が閉められると冷蔵庫の中は真っ暗になる。どこよりも涼しく、静かだ。目が慣れてくると、自分の周囲にあるものたちの黒い輪郭が見えてくる。新入りが入ってきても、このものたちは黙っている。
「こんにちはみなさん」
林檎はビニル袋の中から当てずっぽうに挨拶をした。数段下から小さな咳払いが聞こえた。
「……」
返事はない。尻の下のビニルをいじいじと踏んで鳴らす。すると隣から
「こんにちは……こんにちは……」
と声がした。声はいくつもの細い管から発せられており、ところどころ空気が抜けて言葉が重なっていた。
「ああよかった。僕、ここが初めてで、心細かったんです」
と林檎は言った。
「ええそう……はじめは誰でも……。おやすみなさい……皆がそうします……眠っても眠らなくても……」
ひとつの体から発せられているはずが、言葉が重なる声が不思議だ。消えそうな声だ。まるで何週間も声を出していないかのような……あるいは、喉がすっかり潰れて発することができなくなったかのような……。
「眠るのですか? うーん、僕はまだ、そのうちに」
と林檎は歯切れ悪く言った。
言ってからすぐに、そのうちがすぐ来ることを悟ったに違いない。あちこちから寝息が聞こえる。林檎は雰囲気にのまれやすかった。
林檎の体は徐々に冷える。隣にいるものの寝息も聞こえてくる。かすかに寝苦しそうである。息が細すぎる。
誰が自分に返事をしてくれて、名乗りもせずに寝入ってしまったのか、林檎には永遠に分からない。しかしそれも、眠るなら大して問題ないことだ。
ビニル袋がしおしおと林檎の体に被されば、林檎は宥められてビニルにくるまり、目を閉じるだろう。彼らが木に花として咲いていた頃を想像する。蜜蜂たちが訪れ、さんざめく日々。冷たい暗闇の内にいても、眼裏には葉の緑も鮮やかに、日差しの色がきらきらと輝く。
冷蔵庫は時折、ブーンという低い音を鳴らして震える。新しい会話がどこかで始まっていないか、また聞き耳を立てよう。