悪戯
間宮は転入生だった。榑石が通っている学校の同じ教室へ迎えられた。互いに十四歳である最上級生の年の初夏、春と盛夏の境目の、緑がいよいよ深く繁りゆく季節のことだった。
大多数から見た間宮の第一印象は家柄のよいご子息で、特別容姿が秀でているわけではないが、歳のわりに静かな物言いや、服の皺の一筋の線まで荒れた様子のない態度が、清く、端正な雰囲気を醸しだしていた。間宮の穏やかなまなざしを木陰と思った者たちは彼の周りに群がった。しかし間宮は、虫でも小鳥でも、近づいてくると、そっと枝を振り、寄せ付けないよう振る舞った。相手に明確には悟られぬ僅かな拒絶は、転入生であるという、時の積み重ねの単純な少なさを理由に、さほど不可思議に思われることもなく周囲に受け入れられた。
一方、榑石は時と場所を同じくしながら、他人の交友関係に無関心だった。人の名も、その姿の特徴も記憶に残そうとしておらず、自分の頭の中だけで世間を生きていた。しかしそれでは人から戯れに悪意を向けられることもある。関心を向けられないようにするならば、愚と賢の帳尻会わせに、話し掛けられれば返事をし、きちんと笑顔を向けて敵意のないことを示すことだ。榑石は人であろうと努めた。
だが間宮に榑石の努力は伝わらなかったのである。
「ねえ、これ、あげる」
榑石が下校途中に寄り道した公園に、間宮はひょいと現れて言った。教室でひとことも喋ったことのない相手に突然話しかけられて榑石は驚いた。鼻先に差し出された掌は漂白されたように白い。石鹼でつくられた手に見える。くるりと拳を反し、指を揃えて開かれた手の平に、丸くてすべっこい、黒く濡れた水饅頭のようなものが載せられていた。榑石が声を発する前に、間宮は榑石が座っていたベンチの背にそれを置き、歩き去った。
よく知らない奴から、これまた得体の知れないものを貰ったとしても欠片も嬉しくない。たしかに榑石はひとりでいてばかりだが、集団に馴染まない人間が、たとえ寂しげに見えたとしても、関わりをもてば何でも喜ぶとは限らない。
渡されたものは硬く冷たかった。どうやら石らしい。榑石にとって、人からものを貰うというのは青天の霹靂で、落ち着かない気分にさせられた。くれるというのは、何か分からないが気があってのことではないかと思われた。並々ならぬ関心を寄せられている証だ、と榑石は思い込んだ。少なからず間宮は自分に興味を抱いている。親愛の証を伝えるために石を寄越したのだろう。身に余るものを受け取ってしまった。襟元を風が煽る。枯葉が足下を駆け抜ける。眉間に皺が寄った。
さてその真意はといえば、その後の数週間、榑石が熱心に間宮に視線を送っても、一度も目線が合わないことによってすっかり否定された。同じ空間にいるのだし視線を送っていれば、まぐれに交差することがあってもよさそうなところを、間宮は榑石以外の人々と喋るばかりで、まるっきり無視だ。榑石はやがて馬鹿馬鹿しくなってしまい、気にするのをやめた。貰った石は菓子の空き箱にしまっておくことにした。捨てずにいるのは、我ながら律儀な行いだと自画自賛した。
気まぐれに投じられた石の波紋のはずだった。水面は凪がず、榑石が関心を失ってから数日もしないうちに、間宮の方からまた話しかけてくるようになった。間宮が話しかけてくるのは、その場に誰も他にいないときだけで、夕暮れの道端や、人の目が遮られているような、ぼんやりと暗い場所で声をかけてくる。
間宮と榑石の会話は、ほとんどは取るに足りない話だった。今日は雨、明日は雪、などである。数ヶ月後の卒業が話題になることもなければ、遊びに誘うこともなし。昨日と今日と明日の、まだ採れたばかりの過去と現在と未来しかなかった。だが必ずしも鮮度がよいわけではない。間宮はあまり榑石の返事は聞いていないようだった。一方的にぼつぼつと話しかけ、それで終いだ。榑石の方も寡黙で、まともな返事は出来ていなかった。独り言のような呟きを、返事をしたと思い込んでいた節がある。その切れぎれなやりとりの合間に、間宮は度々、
「石はどう」
と聞いた。どう、と言われても石は箱にしまったまま放っていた。別に何も、と榑石は返した。すると間宮は薄笑いを浮かべて言った。
「そう、ふうん、そう」
榑石には全く意味が分からず、ふざけていると思った。間宮の頬に、えくぼが翳を落としているのが嫌だった。
日をあけてのこととはいえ、間宮が何度も石のことを聞くので、ある日に榑石は問うた。しつこく聞いてくるけれども何故、と。榑石は、自分が訳を知らないままに間宮に笑われ続けることを鬱陶しく内心思わないでもなかった。間宮は笑みを引っ込めて
「じゃあ明日持ってきて」
と急に彼のおだやかな雰囲気にそぐわない鋭い眼をした。榑石は少々たじろいだものの、ここで気圧された素振りをみせたら馬鹿にされるやもしれないと思い、絶対に石を持ってくるから理由を明かすことを守るように、と間宮に約束を交わさせた。
翌日、榑石はいつ間宮と話せるのか気になって、朝から全てに身が入らないでいた。黒い小石はずっとポケットに入れたままで、そこにあることを確かめるために、ポケットに差し入れた手の中で一日中転がしていた。榑石が気になって落ち着かないのを、間宮はまるで気にとめていないようだった。榑石以外の者とは、よく喋ること笑うこと……それでも榑石は自分からは絶対に話しかけてやろうとしなかった。癪だ。意地を張った。それに、話しかけても無視をするつもりだという意志を間宮は漂わせていた。公の場ではお前と会話をしない、と。今までどおりに目を合わせない他に、背中ばかりを見せて、すれ違うことがないよう、とにかく、榑石が露骨にぐるりと首を回さなければ視界に入らない場所にいる。二人は暗黙のうちに、無視をしあった。偶然ではなく、確固たる思いをもって、人前で話すことをはばかっていた。その徹底した具合は、本当は互いに誰よりも親密であるかのように、綿密に織り合わされたものだった。
ついに夕日が沈みかけ、榑石は間宮より先に帰路についた。自分の後ろを、きっと追ってくるはずだと期待し、無関心を装いながらも、追いついてみろとばかりに堂々と学校を後にした。榑石の想像では、間宮は慌てたはずだった。会話を切り上げ、去ってゆく背中を見失うまいと追う、そんな予感がしていた。
馴染みの肉屋を過ぎ、古本屋の角を曲がり、怪しいライムイエロー色のネオン看板を出す店の前を通り、路地裏へ。わざと入り組んだ路を選んだのは、全て間宮のためだった。途中で、背後から肩を叩かれるはずだった。が、一向に叩かれない。全く、来ない。
苛立ち、心臓を絞られるようで、ああ、巷に聞く寂しさというのはこれかもしれない、と気付くと屈辱だった。榑石自身も大概な無礼をかましているが、怒りが勝った。しかし家に帰りきるまでは、とまだ隅で期待している部分がある。ゆっくりと歩き、夕暮れの空に輝きはじめた一番星を見上げてみたり、普段は気にかけない生垣の花を突いてみたりと、おおいに道草を食いながら、公園に立ち寄った。間宮が石を寄越したあの公園である。榑石は、ブランコに腰掛けて休憩したかったからと言い訳を心のうちで繰り返した。座っている間、ずっと腹が気持ち悪いままだった。内臓がまるごと空回りをしている。ぞろぞろしたものが這っている。いい加減、虚しい。おわらせてしまおうか、いや、あともう少し、いや、もう充分、と煮えきらずにいたところへ、後ろから誰かがブランコの鎖を掴み、無理矢理に乗ってきた。足を押し込んできたものだから、横尻の肉をしっかりと踏まれた。驚いたうえに痛い。
とんでもない何かに背中をとられてしまった。のけぞって顔面を拝めば、間宮である。榑石を上から覗き込んで、ぐいとブランコを漕ごうとする。涼しげな顔で荒々しく。
間宮だと分かったときの気持ちは複雑で、やはり追いついてきたという嬉しさと、遅すぎるという憎らしさとが胸の内で丸まり、喉でつかえた文句が榑石の口の端から漏れた。間宮は
「何、なんて言った。石は持ってきているだろうね」
と片眉を釣り上げて言った。榑石は、持ってきたから足を退けろ、と無愛想に返した。素直にブランコから下りた間宮は、榑石が先に帰ったことについて一言も追及しなかった。
「見せて」
要求されるままに榑石は石をポケットから取り出した。手のひらを開いて間宮に見せる。その時、石が貰ったときと違って妙であることに気が付いた。黒色だったはずの石が、石の奥に深蒸した苔が生えたかのように緑がかっている。
「黒くないね」
ぽつりと間宮が言う。違う、ちゃんと貰ったやつだ、朝はこんな色をしていなかった──弁明しながらポケットを裏返しても、入っていたのはこの石だけだ。他に忍んでいたものはない。
「分かっているよ。これはそういう石だから。今日まで気付かなかったのか」
その言葉に、榑石はありったけ目玉を剥いて、石と間宮を交互に見た。その表情を見て、間宮は引き結んでいた唇を細かに震わせたのち、ぱっと破顔一笑した。榑石は再び驚いた。数回しか目にしたことのない笑みのうち、最も嫌味のない、可愛らしささえ感じる純粋なものだった。しかしその笑顔も瞬きのうちに消えた。
「手の中で色が変わるから、握ってみて」
言われるままに握る。もともと温まっていた石は、拳に包むとまだ芯の方が冷いやりとしており、その冷たさは奇妙に榑石の肌を刺した。間宮は無言で榑石の拳を見ていた。きちんと握っていることを見せなければいけない気がして、榑石は片腕を浮かせたままじっとしていた。石が肌に馴染んで温まってくると、いつ色が変わるのか気になり、間宮から合図を送られる前に拳を開いた。
石は掌に密着していた底面がほんのり黄色を帯びて、たんぽぽの花を伏せて置いたような具合に明るく変色していた。掌の上で、風に触れた角の色がくすみはじめる。暗色へと移りつつあるのが面白く、榑石は感嘆の溜息をついた。変な石だと呟き、握ったり開いたり、色の変化を試していると
「あまりやると危ないよ」
と間宮が言った。なぜ、と聞けば
「体温は戻ってこないから」
と答える。首を傾げた榑石に、間宮は深く息を吸い込むと一気に喋りたてた。
「その石は体温を奪うんだ。たとえば人のような恒温動物は、周囲の環境や触れるものの温度に左右されることなく、一定の体温を保つ。内臓の詰まった部分──体の中心部の温度がもっとも高く安定していて、四肢や顔面といった末端は外の変化に影響されやすい。この体の中心の温度を中核温という。通常、人の体は皮膚が臓器を包み、中身を外気にさらすことはまずない。だから外のものが中核温に《触れる》ことはできない」
声は淀みなく、榑石には挟める口がない。
「人の熱は赤外線として放熱されるのが約六割。呼吸や皮膚からの水分蒸発が約二割。そして皮膚表面の空気の流れや接触による熱損失も約二割。人のぬくもりとは、この最後の二割を指しているわけで、いちばん外側の二割くらいなら、多少失ったって問題ないんだよ。だから手当たり次第に、モノに触る。他人の手に平気で触れる。表層の、最もぬるい温度だからできる。温から冷、冷から温へ。触る瞬間、触っているあいだは熱の交換をしている。人間同士なら、せいぜいが一度の差で体温はほとんど差がない。だから、ほぼ平等に交換がされる。混ぜこぜになって、各々の熱がぬるいと感じるような、真ん中の温度になる。でもその石は。
「中和することがない。一方的に熱を奪いつづける。それも表面の温度じゃなくて、もっと芯の部分。さっき言った中核温を。分かる? 奪われたものは還ってこない。あまり握りつづけると体の芯、骨の髄まで凍ってしまうだろうね。つまり──」
間宮は口をつぐんだ。最後まで言われずとも、榑石には先が想像できた。とんでもない石だ。それが本当だとすれば、この瞬間にも榑石はチュウカクオンとやらを奪われていることになる。翡翠色に変化した石は、榑石の熱で輝いている。間宮の頬は青ざめて強張っていた。口の端に冗談の欠片を探しても見当たらない。伏せられた目からはどのような感情も読み取れず、榑石は間宮の言葉が嘘でも真でも気味が悪くなった。そんな石を人に与えてどうしようというのか。担いでいるとしても悪趣味だ。榑石は普段の何倍も俊敏で鮮やかな動きで間宮の手を掴み、石を握らせた。
す、と顔を上げた間宮が、榑石の目をまっすぐに捉えて言った。
「本気にした?」
間宮は微笑う。きらきらと眼を輝かせながら。
「あげたのだから持っていて。大丈夫。作り話だから」
そう言って榑石の鼻先に拳を突きつけた。
異様に青白い手の甲に、緑色の血管が浮き出ている。拳を上下に振って急かすので、榑石は仕方なしにまた受け取るほかなかった。ごろりと黒い石が間宮の手の中からまろび出る。榑石の手のひらに触れた箇所から明るく色づく。みるみる凍える気分になり、榑石は不自然に袖をのばし、その場に間宮を残したまま、家へ走り帰った。