せせらぎ
夜の散歩に、どこからともなく秋の虫がついてくる。ぽつぽつ灯る街路灯の下を外れ、暗がりに沈む低木の後ろから、今にも何かが顔を出す。人か獣か、それとも別か。存在は混沌の壺である。出てくるものが知った顔なら世間は狭い。だが闇夜では、知った顔でも見知らぬものとなる。それは目に見えるものだけではない。音。これもまた、奇妙な存在の塊である。
そこらに建つ家々の間を縫って、目堂雅巳は歩いていた。人は、電気がなければおおよそ昼行性の生きものである。暗くなれば安全な巣に戻り、身を休める。目堂にも巣にあたる家はある。他の人間と同じく、昼間に動き回っていたのだから、大人しく家にいればよいのだが、今晩の目堂は疲れを知らぬ、否、どこかネジの外れた活力を漲らせていた。地をわしわしと蹴り肩で夜風を切る。昼間の疲れきった白い顔からはうってかわって、眉も鮮やかに生き生きとしている。何かきっかけがあって楽しいというのでもなく、ただひたすらに歩くことが血を沸かせ、血が巡るから気分が高揚してくる。どうしても理由をつけなければならないのなら、今夜は満月だ。雲も少ない。昼間ほどではないにせよ、夜にしては明るい。つまり、目堂の昼夜の感覚はすっとこどっこいであった。彼はさも楽しげに、夜道で口元を綻ばせている。
目堂がいかなる様子であろうとも、道に他の者はいない。人々は壁の内側だ。どちらの身に何事が起ころうとも、互いに気付くことはないだろう。
自分の行動の全てを、人に知らせる必要などない。目堂を満たす開放感は、好き勝手に歩いてやれという、人畜無害の範疇だ。誰が彼を責められよう。何者が、闊歩する彼を引き留められよう。
揚々と歩くうちに、短い橋にさしかかった。小川が橋の下を流れている。細々と生真面目に、真っ直ぐ伸びている。人の手で整えられたような生真面目さだったが、脇に生い茂る枝葉と、不揃いの大きな岩が水面に突き出ている様は、まだそれなりの、人間のモラルへの反抗心をもっているようだった。
橋の中央から目堂は川を見下ろした。水底は見通せないが、そこまで深くない川だろう。浸かってもせいぜい腿あたりまでの水深に思われた。生臭い水の臭気が鼻先を温める。目堂は顔を背けた。長く嗅ごうと思える臭いではない。生きものの臭いだった。鯉や蛙や、その他もろもろの濡れそぼったものが放つ臭みである。目堂は身を引き、指先で鼻の下を抑えた。川の流れる音がやけに大きく聞こえた。
歩く勢いを削がれた目堂が、肩を落として橋を渡りきろうというときだった。川の流れる音に混じり、橋の下から、しゃきしゃきしゃきしゃきと、米をとぐような軽やかな音が聞こえてきた。
足をとめ、耳をすませる。しばらく聞こえ、音は止んだ。気のせいかと目堂は思った。気まぐれに弾けたせせらぎだったのかもしれない。しかし、またしゃきしゃきが始まった。橋の上から川を覗き込んでみたが、何者の姿もない。舐めるように川を見渡しても、葉陰に阻まれて見えないのか、ただ音だけがしゃきしゃきと聞こえる。正確に拍を刻んでいる。軽快で小気味よい。ビニル袋を揉む音にも聞こえる気がするものの、本当に米をといでいるとすれば、手慣れた者の仕事である。
目堂は黙って耳をすませていたが、すぐに飽きて立ち去ることにした。背後では、まだしゃきしゃきと音が響いている。音が長く続けば続くほど、関心はうすれていった。せせらぎと同じく、自然のものとして耳に馴染んでいった。
あの川の中に、人がわざわざ浸かるのか怪しいものだ。しかも夜に、腰を据えて何かしらのことをする川とも思えない。人間もまた自然なるものとはいえ、該当の行動は奇妙である。
となると、あの音は怪異かもしれない。人間が深夜に米をといでいるよりも、そちらのほうがずっと趣のある景色だ。目堂は歩みをぐんぐんと早め、家に帰る頃には聞き覚えのない音のことをすっかり忘れてしまった。