彼方の近しいものたち



 コカトリスの卵を椀に転がす。雄鶏と蟇蛙の共同作業が遂げられる前に、巣から失敬してきたものだ。
 油断のならないこの卵は、雄鶏の同種の雌が産む卵に比べ、やや小ぶりで楕円に近く細長い形をしている。握りこむと指がわずかに沈む。まるで布のような殻だ。孵化するときは、このやわらかくも薄い陶器の硬さがある膜を、幼い嘴が内側から突き破る。
 だが、そうなる前に卵を回収する。私の暮らしと、ここら一帯の環境を保持するためである。コカトリスのもつ致死毒は手に負えない。雛から育てることは、つい私が生きている者であるばかりに叶わぬことのひとつだ。
 鶏の体に蛇の尾をもつコカトリスは、その紅玉の目で地を支配する。視線と交差しないようにすることは、コカトリスから身を守る第一の手段である。さもなくば石と化す。目を見ると石化するとは半分が本当で、石になるとは、即ち逃げも隠れもできない状況に瀕し、体が硬直している状態を指す。特殊であるのはたとえコカトリスがその場から去っても硬直が永続する点だ。動けぬことから石化と呼ばれているだけで、石化した肉体を削っても、中身は臓物と骨であることに変わりはない。
 生物が自らにとって不快なものに遭遇した際に辿る三つの反応、逃走・闘争・擬死。コカトリスは擬死を引き起こさせる感覚をまなざしで捉え、もはや為す術がないと思い込ませることに長けている。
 昔、各地を回っていたとき、路に同行するよう私に強いてきた人間がいた。
 名を失念したので、以降レダと呼ぶことにする。
 私の目の前に現れたときには、レダは既に、向けられた側にはただでは済まない関心を半獣たちに幾度も注いでいた。関心を向けるようになった経緯を、私は聞かなかった。
 群れのはぐれものか、傷ついたものが捕らえられた。肉体であれ精神であれ、レダは巧みに傷を見抜いて癒やそうとした。その過程を人間ならば賛美するだろう。弱ったものへの優しさがレダの美徳で、牙だった。
 少なくとも私が見た者のうち全てが寵愛を受けた。その果てがどうあろうとも。
 やがて、レダは手にかけた者たちの残骸を私に担がせ、家に帰ると言い出した。
 私はレダに付き添った。その路の途中、渓を挟んだ対岸の地で、灰色に萎れてゆく草花の間に赤い襞が揺れていた。私は直観から咄嗟に目を逸らした。コカトリスが面を上げたとき、ちょうどレダは対岸を見た。そして目を合わせてしまったために石化した。南天の実のようなコカトリスの目は、自らの羽では飛び越えられないほど隔たれた対岸から向けられたまなざしも、許さなかった。もし地続きであったなら、尾の蛇は這いずり、猛毒の呼気でレダを殺しただろう。私はレダを蹴り飛ばした。そしてコカトリスの視線の届かない場所まで体を引きずった。硬直が解けたレダは、以降私に恭謙な態度を示すようになった。
 このようにコカトリスの目に囚われても、すぐに視線を外して距離を取ることで、石化は解ける。だが大抵の場合は、既にコカトリスの支配する地に足を踏み入れているため助からない。
 食べもしないのに積極的に死に至らせるという点では、レダもコカトリスも同じだ。両者の違いは、気に入ったか、気に食わないかの両極端で、どちらも危険である。
 惜しく思おうとも、卵と棲家を天秤にかけたならば答えは決まっている。
 雄鶏が巣で卵をあたためている。巣といっても簡素なもので、落ち葉をあいまいに寄せ集めた代物である。そこに座る雄鶏と、卵もあるから巣だと分かる。私が近寄ると雄鶏は鳴いて威嚇をする。が、長くは続かない。しばらく側で見詰めていると、卵をなおざりに巣から出て行く。連れ戻しても、すぐ腰を上げてしまう。放っておけば、そのうち巣に帰ってきて抱卵に励む。
 蟇蛙はどこからともなくやってくる。おそらく近くの池からだ。庭にやってくるには石垣を越える必要があるのだが、いともたやすく乗り越えてくる。いつの間にか通い詰めて、雄鶏がいない間に卵を温めている。二匹の付き合いが営巣前からなのか、私は知らない。蟇蛙の越境を止めるなら、まじない師に任せるほかない。
 だがもう長い間、まじない師の姿を見ていない。かつては東から西へ、歩みゆく姿をよく見たものだ。ここが渡りの路から外れたのか。しかし早々あることとは考えられない。東の方で何かがあったのかもしれない。渡りができなくなるような何かが。
 枯葉を黙々とひっくり返している雄鶏を見遣る。ご長寿ゆえに、彼が産み落とす卵の色は、泥団子のような茶褐色から半透明の斑模様になってきた。味も淡泊だ。もう少しコクがあったはずが、変わったようだ。
 舌に残る黄身のとろみをこそぐ。美食家ならば珍重するだろうが、さて。