彼方の近しいものたち
[一]
コカトリスの卵を椀に転がす。雄鶏と蟇蛙の共同作業が遂げられる前に、巣から失敬してきたものだ。
油断のならないこの卵は、雄鶏の同種の雌が産む卵に比べ、やや小ぶりで楕円に近く細長い形をしている。握りこむと指がわずかに沈む。まるで布のような殻だ。孵化するときは、このやわらかくも薄い陶器の硬さがある膜を、幼い嘴が内側から突き破る。
だが、そうなる前に卵を回収する。私の暮らしと、ここら一帯の環境を保持するためである。コカトリスのもつ致死毒は手に負えない。雛から育てることは、つい私が生きている者であるばかりに叶わぬことのひとつだ。
鶏の体に蛇の尾をもつコカトリスは、その紅玉の目で地を支配する。視線と交差しないようにすることは、コカトリスから身を守る第一の手段である。さもなくば石と化す。目を見ると石化するとは半分が本当で、石になるとは、即ち逃げも隠れもできない状況に瀕し、体が硬直している状態を指す。特殊であるのはたとえコカトリスがその場から去っても硬直が永続する点だ。動けぬことから石化と呼ばれているだけで、石化した肉体を削っても、中身は臓物と骨であることに変わりはない。
コカトリスのまなざしは、生物の内にある、もはや動けないという感覚だけを引き出すことに長けているのだ。
昔、各地を回っていたとき、路に同行するよう私に強いてきた人間がいた。
名を失念したので、以降レダと呼ぶことにする。
私の目の前に現れたときには、レダは既に、向けられた側にはただでは済まない関心を半獣たちに幾度も注いでいた。関心を向けるようになった経緯を、私は聞かなかった。
群れのはぐれものか、傷ついたものが捕らえられた。肉体であれ精神であれ、レダは巧みに傷を見抜いて癒やそうとした。その過程を人間ならば賛美するだろう。弱ったものへの優しさがレダの美徳で、牙だった。
少なくとも私が見た者のうち全てが寵愛を受けた。その果てがどうあろうとも。
やがて、レダは手にかけた者たちの残骸を私に担がせ、家に帰ると言い出した。
私はレダに付き添った。その路の途中、渓を挟んだ対岸の地で、灰色に萎れてゆく草花の間に赤い襞が揺れていた。私は直観から咄嗟に目を逸らした。コカトリスが面を上げたとき、ちょうどレダは対岸を見た。そして目を合わせてしまったために石化した。南天の実のようなコカトリスの目は、自らの羽では飛び越えられないほど隔たれた対岸から向けられたまなざしも、許さなかった。もし地続きであったなら、尾の蛇は這いずり、猛毒の呼気でレダを殺しただろう。私はレダを蹴り飛ばした。そしてコカトリスの視線の届かない場所まで体を引きずった。硬直が解けたレダは、以降私に恭謙な態度を示すようになった。
このようにコカトリスの目に囚われても、すぐに視線を外して距離を取ることで、石化は解ける。だが大抵の場合は、既にコカトリスの支配する地に足を踏み入れているため助からない。
食べもしないのに積極的に死に至らせるという点では、レダもコカトリスも同じだ。両者の違いは、気に入ったか、気に食わないかの両極端で、どちらも危険である。
惜しく思おうとも、卵と棲家を天秤にかけたならば答えは決まっている。
雄鶏が巣で卵をあたためている。巣といっても簡素なもので、落ち葉をあいまいに寄せ集めた代物である。そこに座る雄鶏と、卵もあるから巣だと分かる。私が近寄ると雄鶏は鳴いて威嚇をする。が、長くは続かない。しばらく側で見詰めていると、卵をなおざりに巣から出て行く。連れ戻しても、すぐ腰を上げてしまう。放っておけば、そのうち巣に帰ってきて抱卵に励む。
蟇蛙はどこからともなくやってくる。おそらく近くの池からだ。庭にやってくるには石垣を越える必要があるのだが、いともたやすく乗り越えてくる。いつの間にか通い詰めて、雄鶏がいない間に卵を温めている。二匹の付き合いが営巣前からなのか、私は知らない。蟇蛙の越境を止めるなら、まじない師に任せるほかない。
だがもう長い間、まじない師の姿を見ていない。かつては東から西へ、歩みゆく姿をよく見たものだ。ここが渡りの路から外れたのか。しかし早々あることとは考えられない。東の方で何かがあったのかもしれない。渡りができなくなるような何かが。
枯葉を黙々とひっくり返している雄鶏を見遣る。ご長寿ゆえに、彼が産み落とす卵の色は、泥団子のような茶褐色から半透明の斑模様になってきた。味も淡泊だ。もう少しコクがあったはずが、変わったようだ。
舌に残る黄身のとろみをこそぐ。美食家ならば珍重するだろうが、さて。
[二]
大嵐が過ぎ去った翌日の、風のないおだやかな晴れの日はマンドラゴラを探す。三株もあれば、よい値がつく。
マンドラゴラは自分の頭の葉に似た草むらに身を埋める。草むらを片端から引っ張っても見つけられるだろうが、私はそれをしない。三つ葉の山から四つ葉を見つける根気は毎回のようには発揮できない。
動物と植物の中間に属するマンドラゴラは天候によって中間動植物らしさを発揮する。特に雨の日の翌日は、マンドラゴラは頻繁に背伸びをする。マンドラゴラの葉だけが草むらからじっくりと盛り上がる。
伸びてきた葉を見つけたら、一気に間合いを詰める。茎を掴み、頭頂部が露出するまで引っ張る。茎の根元、頭の天辺をコテの裏で力の限り叩く。葉が縮む。気絶をした印だ。これで引っこ抜いても泣き喚くことはない。
採集の後は、直ぐにマンドラゴラの口に綿を詰める。頭部と胴体を切断してもいいが、市場価値が下がるので避けた方が得である。
掘り出してみて、株が小さい個体は再び埋める。その際に葉を一枚、千切っておく。手帳に葉を採集した日付を書く。本体の大きさと、採集した場所も記す。掘り起こされ、葉を千切られたマンドラゴラは、翌日には草むらからいなくなる。雷雨で流されなければ、根を引きずった跡が泥の上に残っている。
マンドラゴラを見逃した数ヶ月か一年後、千切っておいた葉の形を頼りに、個体を探す。個体が生き延びていれば、まずまずの大きさに成長している。個体が見つからずとも、繁殖の機会を与えたと思えばよい。
個体を捕った場所には半年は足を踏み入れない。土の変化にマンドラゴラは敏感である。気長に待てば別の個体が棲家にするためにやってくる。マンドラゴラに「ここの土は安住できる」と学ばせるため、採集の頃合いは気を配るべきだ。
「待てと来いを理解する者に採集を頼るのは胸が痛む。けれども籠や縄を使ってその場にとどめなければならないような、従順ではない者は使い勝手が悪い。そうやって悩んでいるうちに、マンドラゴラばかりが立派に太る」
とレダは私の横で言った。私たちはマンドラゴラが土に潜る姿を木の陰に隠れながら観察していた。レダはマンドラゴラを見据えたまま、
「八百屋の顔にそっくりだ」
と独り言のように続けた。私が同意せずともレダは怒らない。ただ眉間に皺を寄せて考え込むだけだ。
レダが狙うマンドラゴラは肥えていた。しかし体格の割には細くみすぼらしい根をしていた。身を引きずって土を選り分けようとしているところを私たちは偶然見つけたのだった。マンドラゴラの半身は切られて身を晒しており、発光するような滑らかな白さが土の上で目立った。
「きれいだ」
とレダが囁いた。私はマンドラゴラを見るのを止めて、隣のレダを見た。
両掌と膝を地につけ、ほぼ伏せるくらいに低く頭を下げて草むらにかがんでいる。レダの服には泥汚れが付いていた。外套の裾が地面に引き摺られて黒ずんでいる。
私はレダの外套の裾を何となしにつまんだ。
おそらくレダは後で歌いながら外套を洗うだろう。歌の間にはきっと罵倒を混ぜる。洗い終わったら私の元に来て、広げて干しておくようにと命ずるだろう。乾いた土であったなら、はたくだけで気にしないのがレダだが、外套が湿ってしまっては駄目だ。私自身もレダの湿った外套は嫌いだ。
外套の裾を放す。布地が一塊にまとまった。レダはこちらに見向きもせずに、私の手を短鞭の柄で押した。叩いてくる以外で短鞭が使われたのは初めてだった。
マンドラゴラは自分の体を半分ほど埋めたところで疲れたのか、動きを止めた。頼りない根っこでは十分に掘れなかった。レダは懐から木槌を取り出した。
宿に帰ってからレダは言った。
「ちょっと潰しすぎたな」
私はレダの手の中を覗き込もうとした。レダはマンドラゴラを隠すよう、さっと背を向けて
「食べたいか? あげないよ。さて紐は……」
と言って外套を探り、マンドラゴラを窓辺に吊るした。