幻誌
Ⅰ
一月七日
やわらかなものを座敷へ担ぎ降ろす。立たせれば全長が私の鳩尾に届くであろう大きな繭──汚れた湿っぽい布──を鋏で裂き開くと、未熟な軀が納められていた。
頭、頸、胸、手、脚、蝋のような濁った肌に、藍や紫の黴じみた斑点模様が咲く。朦朧と開かれたまぶたの奥に眼球がひと揃え。切り込まれた空洞と見まがう。下肢の根には、ひたと閉じられた貝。その合わせから、軟質の組織がこぼれている。反した背中には、歪んで萎びた一対の腕がたたまれていた。
関節のくぼみや、背の腕にこびりついている汚れをふやかし落とす。冷たい軀は、桃と護謨の合いの子の手触りがした。未だ生臭さが私の指先に残っている。
一月八日
襖を開ける度、もう息はないと思わされる。口元にかざした掌にかかる吐息は、次こそ最後とばかりに儚い。毛布の下で腐敗しているのではないかと疑るが、裏切られ続けている。
一月十日
吸い飲みを口の端から差し込み、無理やりに水を与える。嚥下する力はかろうじてあるものの、ひとさじにも満たない量しか受けつけない。
褥瘡のきざしがみえ、軀を撫でさすってやった。揺すられて、鳴きもしない。されるがままだ。
一月十一日
灯を枕元に点した。吸い飲みを手に、寝床に腰を下ろすと、敷布と枕の陰に沈んでいた頭が傾いだ。そして、まぶたがゆっくり開いた。
虚ろな眼が私の腕を辿り、顔の上で焦点を結ぶ。束の間、私のまなざしと交わり、再び閉じられた。
寝床から離れ、去り際に閉める襖の隙間から見えたのは、腹部を庇うように面を隠し、丸まっている姿だった。
一月十二日
お目覚めだ。
一月十六日
重湯を最初の食餌にした。軀の据わりが悪く、上半身を起こさせてもすぐに倒れる。肩へ寄りかからせ、支えながら与える。匙を挿し込むついでに、口の中を見た。
歯のない口腔の、短くぽってりと厚い舌には、病の名残か白い膜が張っていた。咀嚼に適さない口だ。今後、固形物を与えるならば、磨り潰すか、丸呑みをさせる必要がある。
黙々と匙を運んでいた最中のこと、この者はふと口を噤んでいきみ、肌を粟立たせた。にわかに頚から耳まで赤らめ、肩を下げると共に溜息を吐いた。
完遂されるまで待つ方がまぬけなのだ。しんなりと脱力した軀に、何が膝元で行われたか、遅れて解した。
間の悪さに目を瞑れば上等だ。
一月三十日
幾つか名を考え、⁂と呼ぶ。
二月二十日
皿を持った私を前にすると、惑い、手をついて身をのりだしてくる。匙をそっと押し当てるだけで、素直に口をあける。だが、すぐに俯いたり、顔を逸らしたりする癖はぬけない。その度に顎を掴んで正面を向かせている。
食餌のほとんどを難なくたいらげるようになった。口に含んでから嚥下しきるまでの間隔が短くなってきている。
二月二十四日
座っていても軀がふらつかなくなった。ささやかに毛髪も伸びてきている。背の腕だけは色が失せたまま、だらりとゆるんでいる。
三月三日
まだひとりで立つことは難しい。寄りかからせた状態から離れると、間を置かずに倒れる。這って寝床に戻ろうとすらしない。
家にいる間は、出来るだけ同じ部屋で過ごしている。あの者は、私が部屋を出て行こうとしても反応がないが、部屋に戻るとこちらを向く。それまで大抵は、あらぬ方を向いている。眼に光りがちらついた。何かを追い、眼が動いていた。しかし何を追っているかは、よくわからない。
邸内に花の香り舞いこむようになってきた。香気は根があるものも無いものも、等しく豊かに漂う。やわらかくも、眉間の奥を突く香りだ。遠くにあればゆかしく思えて、近くに束ねれば噎せ返る。この香りは気が塞ぐ。
三月五日
気まぐれに匙を持たせた。
骨に張りつく皮膚に関節のふくらみが目立つ、痩せてくびれた指をしている。
私は手本を示すよう、匙を持って皿の中身をすくい、自分の口に含むふりをしてみせた。あの者の視線は、匙の先から私の顔のあらゆる箇所へ、乱雑に当てられた。
置かれた食器に手を伸ばす気配がなかったため、下ろされたままの手を取り、匙を渡した。しかし、苦心して親指、人差し指、中指の三本で柄を握るよう指を摘んで持たせても、たちまち匙を落とす。何度か繰り返し、握らせた匙を唇に押し当てた。首を反らすせいで、汁がこぼれて襟が汚れた。
それでも繰り返すうちに、匙を持つ指が震えなくなり、手首の返しも優れて洗練されていった。背骨から頸椎を通り頭蓋に至る軀の芯に、初めから備わっていた品性が所作を思い出したかのようだった。
閉じた口が食餌を含んだまま動かず、顎に手を添えて上向けさせた。あの者は煩わしげに口腔を空にし、この日は二度と匙を持つことはなかった。
三月二十九日
振り子時計の単調な音だけが響く。息をしているものがいるとは思えない。静けさに満ちている。
どこにいるのかと姿を探した。
大抵、あの者は四本の腕を折り畳み、まどろんでいる。項垂れて壁を頭の支えにしていることが多い。
襖を開け、見回すまでもなく閉じる。この家には、隠れる場所がない。
あの者は、行きずりで広縁に横たわっていた。面がこちらを向く。私が傍らに座ると、あの者は背の腕を伏せながら、私の膝の上に乗ろうとしてきた。
幼児や獣の真似ごとは不愉快だ。庇護も支配も私は望んでいない。
腿にかかる重さが腹の底を震わせる。軀を預けられることで、私の身に不本意な重みがかかる。骨が軋む。間近に迫った双眸が、穿たれた穴のように暗い。冷めた呼気に漂う鉄錆びた臭気と、ぬるくあたたまった軀が放つ石鹸の香りが、私の内側に流れこんでくる。
退けられなかった。
五感は私を欺く。度を超して認識を膨らませ、頭蓋骨を砕く瀬戸際まで追い詰める。
麻痺した視界で、焦点をずらす。あの者をぼんやりと捉える。翳がより美しく、醜く、姿を包む。
思い出の顔に似ている気がした。しかし、その表情が思い出せない。
私はみじろいだ。あの者は緩慢にまばたきをした。糸くずのような埃が、まつげにのっていた。
五月二十八日
軀に肉がつき、いよいよ活発に動くようになってきた。その反面、未だ黒ずむ背の腕は、不釣り合いに汚いものを負っているとしか思えない。
私は庭に面した廊下に籐椅子を置き、陽を浴びていた。あの者は眼を細め、すぐ日陰に身を引く。私が寛いでいるのを、物陰から見ている。引きずりだすのも酷と思うので、かまわずにいる。
六月六日
背の腕を壁にこすりつけて歩き回る。黒ずんで鱗状に割れた皮がはがれ、露わになった肌もこするせいで、赤黒くひきつれている。
壁を使っても、付け根を掻くのは難しいようだ。あまりに苛々とした様子だったので、刷毛を軽く滑らせた。炭が崩れるように粉が舞う。しばらく気持ちよさそうにしていたが、どうかして痛みがはしったらしく、私の手を弾いて逃げた。
そのまま放っておいてしばらくすると、またしてほしいと言わんばかりに腕をぶつけてきた。
六月十九日
うす暗い白熱灯が点く廊下の、二階へ続く階段の前に、あの者が立っていた。上階を仰いでいる。おいでと声をかけると、あの者は振り返った。さらに呼ぶと、小首を傾げ私の顔を凝っと見つめ、ふ、と右腕を浮かせた。
ゆるく伸びて、糸で吊られたように宙を指し留まる。こちらに向けられた指先は、どうも私の背後を指しているようだった。
名状しがたい気配が形を成しかけていた。振り向く気にも、二階へ続く階段を見上げる気にもなれない。
違和感を振り切り、有無をいわさずあの者を抱えて寝床に向かった。
背後には何もなかった。腕の中の重みこそが、現実である。
七月一日
見知らぬ者の訪問があった。半月型の眼鏡をかけ、灰色の口髭と、撫で上げた髪をし、橙色の格子柄が織られたチョッキを着た男である。「ごめんください」と人を呼ぶその声は、朗々とよく透った。私は庭先の木陰に潜んだまま、黙って男を眺めていた。
男は長く居座った。立ち去ってからしばらくして、また現れた。今度は木戸を躊躇いもなく開け、庭までやってきた。私の姿を認めると、さして驚くこともなく、一礼を寄越した。無数の蝶々が、盛んに男の周りを飛んでいた。訊ねれば、しがない蒐集家だという。
蒐集家は「おひとりですか」と問うてきた。そうだと答えた私に、含みのある微笑いを返してきた。この御仁は気配に聡い。
八月四日
家を出ようとすると、あの者が追ってくる。部屋へそっと押し戻して拒むが、戸を内側から叩く音には後ろ髪を引かれる。こういった類いのものは言い聞かせても理解しない。
あの者は以前ほど陽射しを忌避しなくなった。しかし、私は真昼間に連れ歩くことが相応しいとは思えずにいる。
椅子に座る私の脚の間に割り入り、腿に寄せてきた頭を見下ろす。葉や磨硝子にあやされた陽射しを背に受け、頸にかかった髪が、ゆるやかに渦を巻いて流れている。にぶい欠伸につづいて、あの者は眼を閉じた。
私は手を伸ばし、背の腕を陽に晒した。照った新しい皮膚は、軀の内を外へ裏返したかのように、なまの色をしていた。肌が熱を帯び汗ばむそのうちに、息は深く長いものとなり、ふっくらと膨れた獣のにおいがたちのぼってきた。炒った豆類に似た、甘いにおいもする。
八月十三日
庭の祠に、ろうそくを灯す。供物の李を切り、欠片をあの者にも与えたが、舌に触れるや吐き出した。
十月十日
箪笥に仕舞っていた衣服を割いても適当なものがない。あの者の軀に私の衣服は大きすぎるうえに、つくりからして相応しくない。だが外へ連れてゆくなら整えなければなるまい。遠目に見てそれらしくなればよい。
人にまぎれるなら布は偉大だ。腰に巻くたった一枚の薄布だけで、その者の過去に人の道理がうまれる。
擬態はまず、足袋と靴を履かせること。それから手袋、鉤針編みの帽子。襟巻きは私のお下がりで藍色のもの。この色は厚い曇りの空によく馴染む。
外套をさらに羽織らせた。背中が奇妙に盛り上がるのは避けられない。
十月十一日
庭に出す。並び歩くにはぎこちなく、手を繋いでやるより肩に腕を回していたほうが安定する。
十月二十一日
数日前、門前にて蒐集家が「つかぬことを伺いますが」と言って指先で曲線を描き、邸内へ向けて掌を開いた。この男は微笑うと目尻に縮緬模様のしわが寄る。目の奥にあやしい光がちらついていた。「お持ちでしょうか。」興味が湧いたものに対する冷静さを装った興奮が滲んで聞こえた。
私は否定した。蒐集家は笑みを浮かべたまま、「左様でしたか。実は我が家には……大勢」と言って足元に視線を落とした。その目は脛にじゃれつく何かを追うように漂っていた。口の端が歪む。「よろしければご覧になりませんか」と蒐集家は私を誘った。
十一月七日
紅葉を踏みしめる音もかろやかに、時折吹く冷たい風を意に介さず、あの者は私の数歩先を歩く。私は黄色い葉を一枚拾った。指先でくるりと回す。あの者がこちらを振り返った。私は葉で遊びつづけていた。その葉を、あの者は捕った。私は指を離して譲った。奪われた葉は、すぐに放られた。
私が別の葉を拾うと、また手が伸びてきた。渡すと、放られる。葉を拾い続ける私の手から、あの者はついに乱暴に毟り取るようになり、私は途中から、煽るように葉を拾った。
十二月三十一日
大晦日。快晴。南天の枝を折り、飾る。
あの者は背の腕を広げたり閉じたりと、顎を上向け、窓の外を眺めていた。声をかけても反応がない。
ぼやけた丹色の日暮れが夜に没しても、あの者は天を仰いでいた。そこで庭に連れ出した。脇下を掴み、空に投ずるよう持ち上げる。瞬時に背の腕が広がった。
暴れはしない。腕にしがみついてきて、いけなかった。何度か身を離そうと試みるも、首根に齧りつかれ、息が苦しくなるばかりだった。引き剥がそうと四苦八苦しているうちに、飛び石に水滴がぱたぱたと落ちたのが見え、抱いたまま身動きが取れなかった。
Ⅱ
一月一日
酒、だし巻き玉子、煮豆、蒲鉾を供えた。
二月十四日
雪が降りしきる仄白い景色にまぎれ、身を寄せ合い歩く。
傘の内側で、あの者は私に抱き寄せられるままに歩いた。時折、深く被せた毛糸の帽子の下から私を見上げてきたが、わかったように軽く叩いてやると、背の緊張を解き、しなだれかかってきた。
幾人かとすれ違った。誰もが傘の内側に身を隠している。
三月七日
沈丁花は胸元であたためたような甘い香りがする。花序は血筋のはしる水晶で、殊更に手入れをしていない株だが、毎年律儀に咲く。一帯に香りを撒いては、淡々と身を枯らす。
一枝だけ切り、眠る者の鼻先をくすぐった。寝覚めにもたつく腕はあどけなく、鬱陶しげに振られた。
三月二十九日
軒先で雀が桜の花を摘み、くちばしの先で遊ばせていた。数羽が枝にとまって花を落とすので、咲いたばかりの花が名残の雪のように降り積もる。あの樹の根元に、身を横たえていたことがある。
其のかみ、私を見つけた知人は、怠惰に寝転んでいる私を黙って見下ろした。私は、放っておいてごらんよ、と言った。知人は何も言わなかった。目は私に向けられていたが、僅かに揺れて、迷い子の、行きも帰りも分からぬままに追い出された、といったふうであった。ひとりの人間を放っておくことは、そんなに難しいことだったろうか。それからどれくらい経ったのか、今も同じ場所で芽吹くものがある。
五月十五日
夜の川辺にて、粘着質に照る墨色の流れを眺める。時折水面が破られる。魚の背が捩れる。身が疼く。腕をつい掻きむしった。
六月十七日
雨粒が窓硝子の表面を伝う。ゆくすえを追い、あの者は俯く。見届けると、また上向く。精緻ではないが、規則がある。
戸を叩く音を聞き、玄関に向かった。磨硝子の向こうの影は蒐集家だった。私は暗い玄関で佇み、灰色のぼんやりした影を眺めた。蒐集家の手が、引手にかけられた。戸が静かに軋む。戸には鍵がかかっていた。開かないとなると、磨硝子に橋をかけるような黒い小さな影が浮き上がった。つづけてその周りが薄暗くなる。
やがて影は離れ、足音と共に遠ざかっていった。
雨が止むと、露を払うように、あの者は書物の山を崩した。文箱の手紙も散らかした。乱した部屋の壁を這い、天井に近い角で肢を広げて枝垂れた。
目を離すと、別の部屋に居る。廊下でも部屋でも、腹をつけて這う。長椅子や机の下の硬い床に、腕も足も投げ出して潜っている姿は、しばしば可笑しい。縮められていた四肢が、蔓を伸ばすように家具の下から出てくる。家具の下からはみでた腕は、私の指が縁を掠めただけで、さっと折りたたまれる。
七月八日
互いを脅かさないことについて、弛緩した軀は無防備に首筋を晒す。害されるとは思ってもいないらしい。
八月十四日
あの者が散らかした様々な物を、全てではないが元の場所へ整え続ける。一部の物は外に持ち出した。たとえば私の万年筆。さほど値打ちのある物ではない。文箱から出した万年筆を、掌に載せて眺めた末に、懐に仕舞った。気難しい筆であるから、他人の癖を覚えさせることもなく、使わずにいる。
整頓をすすめるうちに、本棚にあるべき本がなくなっていることに気付いた。探せば、居間の床に座りこんだあの者の膝の上に開かれている。あの者の眼は頁に落とされているものの、どうやら文字を追っているわけではなさそうだった。それでも、まだ読んでいるのに片されては困るだろうと待っていると、あの者の顔がこちらを向いた。私を見て、仄かに笑んだように見えた。気のせいだろう。微笑を以て挨拶を交わすのは人の習わしであり、私とあの者の交わりにはない。眼許に幸福を読ませる仕草を、いつの間に覚えたのか。
十月十五日
蒐集家が置いていった封筒を開けた。写真と数枚の素描が入っていた。
写っていたものは人に似ていたが、厚みのある胸が背中へ、双翼となって伸びていた。首根の筋が太く逞しい発達を遂げている。裏面の走り書きを読むと、これは頻繁に羽ばたきを行うが、飛ばないという。威嚇をするかのように腰を低く構えている写真からは、下腹部が陰となり暗く、特徴は見取れない。巧妙だが、胡乱な撮影だった。
本物を御覧になりませんか、としたためられている筆跡は、蒐集家のものらしかった。私は招かれるままに、蒐集家の邸宅に赴くことにした。
十月三十一日
人形……だと蒐集家は言った。喫茶もそこそこに、蒐集家は白い布が被せられた長方形の箱の前へ、私を案内した。
箱の前に立つと、蒐集家は布を取り払い、腕に丸めこんだ。
硝子の棺桶の中で、人形はうたたねをしていた。ゆるやかに巻かれた栗毛が輪郭を縁取っている。まぶたをゆったりと伏せ、しどけない唇の隙間から粒揃いの歯がのぞく。身の丈の半分以上を占める双翼で、自らの軀を包んでいた。上肢に挟まれた胸が慎ましい渓谷をつくっている。甘やかされた肉付きの前腕は下腹部で交差しており、垂れた象徴の脇に手が置かれている。十本の指が飾るものに否が応でも視線が向かう。楕円の爪が、今しがたまで口に含んでいたかのように照っていた。
生きていようがいまいが、人形は勝手に動くことをよしとされず、囲われている。予想外の場にあってはいけない。埃を被ることになろうとも、愛でられる時をいつでも待っていることを望まれる。妄想を継ぎ接ぎにした贋作である。ゆえに至上の瞬間を保ちつづけている。
蒐集家と私は黙って人形を眺めた。蒐集家が腕に丸めて持っていたはずの白い布の裾が、床にだらしなく引きずられていた。
部屋には他にも白い布を被せられたものが多くあった。その布の下から、無数の眼がこちらを伺っている気がした。くり抜かれた眼孔にも、視る力は宿る。
帰宅した私を迎えた者の、顔色の良からぬこと。これこそが生きている色だ。
十一月二十三日
私は背の腕を覆い隠す。人の感覚でものを語る。人、という膜を介する。純に捉えることが、私にはできない。
まなざしは方々へ流れる。流れた先に、丸い鱗が落ちている。ささやかに揺れている。鱗は、窓の外に植えられている椿の厚ぼったい葉の隙をくぐり、落ちてくる。摘もうと指を近付ける。触れるより先に私の指に重なり、ただ、差しこんできただけの光に変わる。かろやかに、存在しないと訴えてくる。
目を瞑ったのはどの瞬間か、眠り、とてもよく眠り……あの眼裏は、そこに存在しないものすら見たような気にさせる。
ふと、息苦しさに目を開ける。腹の上にあの者が跨がっていた。
私は再び目を閉じた。脇腹が圧迫されていた。脈拍が振り子時計と同調する。無視を続けてどれほど経つか、あの者が私の肋骨に手をついた。重みが一極にかかる。息を詰めた私の腹の上に、あの者は座り直した。両肢に挟まれ、腹部が脈打った。拍動が速まる。なまあたたかい衝動が凝りはじめ、あの者を腹から退けた。それからまんじりともできず、はらわたが鈍い。
十二月二十六日
庭先、雪の白さ。枯れ枝が糖衣を着る。ふくよかな雪が、月光を廊下へ誘い撒く。
淡々と身繕いをする。徐々に玄関へ向かう私の後ろを、あの者はつけ回した。私は独りで出掛けるかのように襟を留め、その傍ら、あの者に外套を羽織らせた。
腕を掴むことはもうしない。肩も抱かない。
細い路地を選んで歩く。街灯が道の竟を示している。くすんだ黄色い灯は、人の皮を張り替えるように、その下に立つ者を照らす。だから足元に生える草花は正気の色をしていない。
街灯を過ぎたところで、背後を振り返った。照らされた明るい間を挟んださらに向こう側から、あの者がこちらへ歩いてきていた。灯の下にあの者が立つ。人らしい姿が照らし出される。私と同じ道筋を辿ってやってくる。追いつき、そのまま私の横を通りすぎていった。
Ⅲ
一月十三日
庭先に出たあの者は、数分もしない間に頭や肩へ、粒の薄化粧をほどこされていた。
十数年前も似た光景を見たような、もう随分と前から知っている光景が目の前に繰り出されたような心地がした。しかし誰も、かつての姿を知らない。
このあたりの家々に住まう者達は、日暮れを迎えて鶏冠石の灯を囲いに点すまでは、住んでいることを忘れさせる。私自身もまた、姿のない住人として、灯を提げる。
一月二十一日
夕頃に、ぽっと点いた街灯の下へ、女が現れた。女は街灯の下からその隣の街灯の下へ、節足動物を思わせる俊敏さで移動した。口を大きくあけて腹を凹ませ、クッと空気を飲み込むと、あけた口のまま隣の街灯の下へ駈け、詰めていた息を吐く。街灯の下に入ると、安堵したように肩を丸める。それを繰り返し、街灯から街灯へ渡っていく。私は女の後ろを追うように同じ道を歩いていたが、曲がり角で反対の方向へと別れることになった。
あの女はどこまで灯を辿っていくつもりだろうか、結構なことだ。私は振り返らなかった。
二月二日
背後で床の軋む音がした。振り返り見れば、あの者が居た。私は壁に寄りかかり、あの者がこの部屋に何を見つけるか、待った。部屋の中ほどで、あの者は立ち止まった。凝った塊が布を押し広げるように、前閉じの釦の穴がひきつれた。裾が軀に張り付く。
私は制止するよう柏手を打った。あの者は、前屈みに傾いて止まった。背の膨らみが、ずるりと崩れた。裾から腕が露わになる。根が皮下に潜り込み、のたうつこともなく、放られて──私は、柏手を打つ。
この部屋は鈴鳴りがする、と最初に言ったのは知人のはずである。
がらんどうの部屋で、私のお気に入りだと、知っている。
二月三日
七回も春が過ぎるというのに……
三月二十九日
入り乱れて喧しい色彩を、曇り空が濁らせる。曲がった背が部屋の隅に蹲っている。私は戯れ事に微笑んだ。あれに手を置けば、蠢く軀が分かる。
腕を前に出した感覚はあった。関節の軋みも、重量も認めていた。だが視野の内に前腕が存在しない。袖のみが揺れている。
袖口の貝釦が外れかけていた。
この釦は、以前、知人が縫いつけたものだ。知人は「明日か明後日か、一週間後には必ず困ることになるようなほつれがあるから、袖を貸してみたまえ」と私を唆した。私は椅子に腰掛け、腕を差し出した。知人が懐から取り出した針箱は、女の口紅の如く装った艶色をしていた。
袖を広げ、とつとつと縫う。知人は私の腕に、針よりも自身の指が擦れぬよう息を詰めてみえた。しばらくその針運びを眺めていたが、確かな手つきになってきたのを認め、私は針先から視線を外した。丁度その時、障子が開いた。知人はそれに気付くと、手を休めて「家の者と喧嘩をしてしまいましてね。釦のひとつも留められないくせにと言われて、こうして躍起になり、他人の袖を摑まえては直しております。人のものだと思えば、僕も精魂を込めようとしますから、このとおり上達しました」と、まだ糸を切っていない釦を見せびらかした。障子を開けた者は、可笑しげにゆらめく声を残し、部屋を出て行った。
釦に向きなおった知人の手は僅かに震えていた。私は手首を反し、指を知人の袖口に挿し入れた。それで、糸の始末が疎かになった。
思い出から戻れば、袖口を何者かが引っ張っている。確かに見慣れた手が、ひらめく袖の釦を懐かしげに弄っていた。
五月一日
もし今ある形から変わったならば。均衡を保ち、人という型におさまっている姿が、どこからでもいい、内臓からでも爪先からでも崩れたのならば。破片は個から脱して風景に溶けこむ。個が知覚できない個が、風に吹かれる。あるいは箒で掃かれ、屑籠の中へ溜めこまれる。巡り巡って、誰かの口に触れることもある。それはもう元の個ではないが、形あるものは寄せ集まり崩れた末に、還る。
抱くのは親近感と、なぜ隔てられたのかという疑問だ。あなたは個ではないというまなざし。各々が放っている形というもの。あなたは個になりそこなった個だ。個はあなたになりそこなった。
欠けているのは形であり、なだらかに満ち足りているのを、日々に感じているはずだった。
伏せた瞼の先で、蝋燭が溶けてゆく。私は知人の正面に腰を下ろしていた。発される言葉を待つ。居るのだろう、と知人は言った。私は灯を吹き消した。すっとのびる白い煙が鼻の奥へ、うすもやに漂う。知人は消えた灯を見て俯くと、口元を歪めた。笑みは私へ宛てられたものではなく、知人が自分自身のために浮かべた自嘲の笑みだった。笑みはきっかけもなく、頬や目元から姿を消した。知人は、私を呆然と見詰めた。見るべきものを虚空に、目を開いている。そしてやおら私の悪戯を説教した。
執着が音の連なりを言葉と思い込んだ。あたたかみも、滑稽さも、いずれもありはしない。言葉は示した瞬間から歪められた事実として残る。己の力では意味を与えられず、五感で受け取ったものを示すことは難しい。感覚は己を含めた何者も信じられるものではない。たとえ声の抑揚から言葉の意味を汲み取れたとして、言葉が一方を指し示していても、形はおぼろげである。音は降りつもり、繰り返される。真意は蓄えた軀の形で響く。
精神の土壌は、数多の信仰の層だ。疑うことを知らず、同時に疑うことを信じ、没頭する。
知人は一方的に喋りつづけた。その声も徐々に呻き声に変わっていった。閉じたまぶたの目頭が濡れていた。私の視線から顔を背ける。仕方のない奴だ。知人は、関わりを保っていられることは、それだけで幸運なことだと思える、と口にしたことがあった。しかし、既に……。
他者は勝手に存在を喫する。それぞれに魂の廟があり、背に還る威信をもちながら、供するは八百万の存在である。あらゆる表出が火花を散らす。ひとつの存在として組みこまれながら個の静寂を保ち、限られた点で交わる。
日々のいろどりの全てが澱んでいるように思える。手で顔を覆う。その間に、何日も過ぎたのではないか。
五月四日
こんなつもりでは、と呟く。私は返事をしなかった。
不意に、アあと啼き声が聞こえた。醒めて顔を上げた先に、輪郭をもった影があった。似ている。とても、よく。
七月二十二日
木陰を凝っと見ていた。あの蒐集家が、相も変わらず勝手に庭に入ってきた。私は彼を一瞥もせず、黙って縁側に腰掛けていた。既に辺りは声に満ちていた。醸すように群れて緑色の草叢から発される湿った呼気が、じっとりと肌に纏わりつく。ひぐらしが陽射しの裾を引き留めるように鳴いている。近くの木ではつくつく法師が、私の代わりに沈黙を埋めていた。蒐集家は邸宅を見上げた。端から端まで、右から左へ、窓をひとつずつ舐めるように首を動かした。
縁側の板が軋んだ。揃って、音の鳴る方へ顔を向ける。
何者もいない。「どなたか……」と蒐集家は小声で言った。床を躙る音は、近くまで来ていた。蒐集家は縁側を上がった。私は首を捻って蒐集家を見た。蒐集家は障子を開けた。
木枠の内にあの者が収まっていた。最後の陽光が手前に射す、奥の暗がりに佇んでいる。蒐集家が喉を鳴らした。そして大袈裟に呼吸を甦らせた。「生きている」と嘆息が聞こえた。そうだとも、生きている。
蒐集家はあの者と距離を保ったまま、一切の視線を逸らさずに跪いた。触れぬ所作は礼儀正しい。指が鉤の形に曲げられていた。
お引き取りください、と私は言った。蒐集家は縮緬模様の笑みを私に向けた。「悪いお人だ」と言い、蒐集家は笑みを引きずりながら帰った。私が障子の奥を再び見遣った時には、動くものはなかった。
九月九日
竹籠を思い出す。唐紅色の房を結んだ竹籠に、丸い翅を重ねた鈴虫を飼っていた。金属の声をもつ虫らは、蟹股で脂肪を感じさせる厚みのある腿をしている。細い竹の網目の内で、よく鳴いた。
風流だ、と竹籠を指して人は言う。その声に応えて鳴った喉のわらいは、慈しみと、わずかに侮蔑のいろが含まれていた。
自分の喉を抑え、あの者が首を傾げたのを真似して共に首を傾げる。あの者は唇を擦り合わせ、気泡の音を鳴らした。そして、くん、と鳴いて背の腕を片方ずつ伸ばした。鼻を抜けただけの音。返事にも聞こえる声のようなもの。
九月三十日
喉の潤しに、冷やした水蜜桃に刃を入れる。潰して与えるところを、六つに切った欠片のまま、フォークで刺してあの者の口元へ運んだ。あの者は唇で控えめに挟み、すぐに面を背けた。しつこく唇に当てても食べようとしない。やわらかくなって、果実の表面に滲み出た汁が口の周りを汚しただけだった。ひと舐めでもするのなら、そのまま口をこじ開けることも出来ようが、いつまでも窄めたままだった。
潰れた水蜜桃は茶色い汁をしたたらせる。上澄みを匙ですくう。あの者はしばらく、きれいにしてやったはずの口の周りを手の甲で擦っていた。
十月三日
雨を頬にたのしむのもよろしいが、私は濡れるのが嫌いだ。あの者を抱き上げ、あずまやで雨宿りをした。一度抱き上げるとその日の散歩の間、降りて歩こうとしなくなる。やすみ、やすみ、抱え直しながら家路を辿る。
前方から老婦人が歩いてきていた。綿毛のような白髪が夜風になびいている。曲がりかけた腰を正すように、胸を反らし、顎を引いている。傘を片手に持ち、地を突くことなく、踵を踏み降ろしている。彼女は私たちの姿を認め、歩みをゆるめた。およそ女は、小さき者と見定めると無分別に親愛を示す。老婦人は早くも、傍を通る時のために胸元のシフォンを膨らませ、傘の柄を両手で握りしめていた。
老婦人は会釈を寄越した。私は軽く頭を下げ、目元をゆるめた。あの者は私の首筋に面を伏せていた。老婦人はあの者を見たが、水を流すように視線を外した。傘を持つ手に、太く血管が浮いていた。私は立ち止まらずに、老婦人とすれ違った。
或る人は、表面に見えるものが現実であり、見えないものばかりを信じることは病のはじまりだと云う。また或る人は、見えるものばかりを信じなさるな、見えない世界にこそ信ずるに価するものがあるのだと云う。
人々の説に従うなら、私は他者の現実と非現実の境で、幻覚と真実そのものとなろう。
十月二十五日
あの者を室内にいれるため、縁側を下りた。庭の隅に姿が見えた。蹲踞まっている。垂れた髪が横顔を隠していた。寄ってみれば、あの者が頬を動かしている。口の端から糸のような細長い脚が、放物線を描き伸びている。閉じた口の周りで脚が踊る。あの者の喉が腔内のものを飲み下そうと動いた。させまいと私はその喉を掴んだ。口をこじ開ける。奥に引っかかっているものを引っ張る。喉が苦しげにあぶくを鳴らしていたが、指で口腔を掻きつづけた。私はあの者を地面に押し倒した。馬乗りになった私の下で、あの者の髪が乱れた。塊が喉の奥から引きずり出されると、あの者の腕は力なく地面に伏せられた。
土に叩きつけられた塊が、ゆっくりと脚を開く。それは見覚えのある細長い花糸で、喉から咲いて千切られた花は、赤黒く枯れかけていた。
十二月一日
時折、床の軋む音が聞こえる。邸内のどこで足音がするかと、私は耳を澄ませる。襖を引く音がしないかと、背後に気を配る。それでいて、何食わぬ顔で過ごす。埃が払われるおかげで、気配を保っている。
Ⅳ
一月三日
放っておけば姿が見えないのはいつものことだからと、私は気を抜いて長椅子で眠りかけていた。その折、物の倒れる音が耳に届いた。水回りの方からだった。確かめにゆくと、盥が覆され床が水浸しになっている。暗い水が幽かな光を受けて糊のように伸びてゆく。
飛沫は水回りの外へ続いていた。跡を辿る。廊下の角を曲がり、数歩進んだところで途切れていた。水の滴るものを掬いあげたかのように、忽然と消えている。
私は狭い廊下を見回した。前方には縁側が、後方には来た通路が、右は壁、左は閉ざされている引き戸、床を這うものはおらず、天井に吊られるのは照明のみ。
おもむろに引き戸に手をかける。この部屋は滅多に開けない。よく言い聞かせられた。家のどこにも居なければ、この部屋に居る、と。
指先に力を込めたが、戸を開けられなかった。私は水たまりを片すために、その場を離れた。
二月二十六日
部屋の奥に影があった。誰かといっても邸宅には私とあの者しかいない。暗がりでよく見えないが、俯いて背を曲げているようだった。声をかける。しかし反応がない。
肩に手を置く。随分と角張っていた。触れているのは、外套が掛けられた椅子だった。
三月十日
花瓶に挿していた蝋梅を、枝先を地に向けて持ち歩く。枝から滴った水滴と蕾が点々と廊下に散らばる。影が障子の裏を、音もなく横切る。
霊が枯れ尾花であっても、枯れ尾花が霊であったことはついぞ聞いたことがない。花の霊は、厚い本の隙間で腊葉とつながっている。その神経をあわよくばと写し取ったのは七節である。他もろもろの地に落ちた枝と異なり、七節は地表では不安になるらしい。枝らしさを捨て、風が吹こうが吹くまいが、樹木を目指して歩む。その速さは霊を陵駕する。
一方、枝先で変化する蕾は、その硬軟の合掌を四季に習慣づけている。四六時中その掌を開かないのは、彼らの礼節で、人の時の指標である。
合掌は辞儀の後に開かれる。花々の折り目正しい出会いを境に、人は季節に会い、別れを知る。
蝋梅の枝が私の手に重みを感じさせるとほぼ同時に、すり抜けて床に転がった。
こうして、いくつもすれ違ってきたものの姿がそこにあるのだと、私は繰り返し呟く。
三月二十九日
窓が叩かれる。床が軋む。天井に音が弾む。半ば宙に浮くようにして進んでゆく身のこなしが聞こえる。あれは自らの軀の重みを知らない。
雨脚が踊り狂う。気付けば追っていたはずの足音はとうに消えている。代わりに、隣室から、水が粘りを帯びて擦れ合うような音が聞こえてきた。
襖を僅かに開ける。隙間から覗いた座敷の隅で、頭が揺れていた。音が耳を舐る。私は襖を手の甲で軽く叩き、自分がここに立っていることを主張した。頭が振り返る。粘ついた音が失せた。引いた襖の、私の背後から差し込んだ光源が、座敷の隅を滑るように照らす。
着崩れて、見る影もない襟をしていた。ぬらつく赤黒い塊が掌に載せられている。粒と、裂けた繊維が指の間にこぼれる。一握りの果肉がみずみずしく、痙攣していた。
四月二十三日
繰り返す習慣は身に染みついたものというよりは、苦し紛れの願掛けのようだ。戸を叩く手の甲に、痕が残れば慰みにもなるが、到底望めない。
件の手首を眺める。管と肉の房に、脳の底を茶杓でこそがれる心地がする。管は見覚えのある青竹色をしている。意識して見たことがなくとも、眼裏に沈着した色だ。針が突かずに済んだ管のうちの一本が、水面を背鰭で破るように浮きあがる。私は息を詰めていた。時が焦げつく。
四月二十五日
兆しは……なかった。
横たわる軀の褪色した腕だけが、ゆるく曲げていた指を唐突に開花させ、私の手首を撫でた。
張力を奪われた。膝を床に立てていられず、前屈みに腰を曲げ、力なく己の手を委ねるしかなかった。
やがてはじめに、私の中指が動いた。背の腕を、掌から肘に向かって撫でた。そしてまた肘から掌へ、幾度も行きつ戻りつ、静かに辿る。この軀には不釣り合いな、私の見覚えのある腕。一度も見たことがないはずの、肘の内側。滅多にまくられることのない袖の奥。これを、知ることはないはずだった。
互いの指と指とが触れかけたとき、私は咄嗟に鳩尾を庇ったが、喉が既に私を嘲笑っていた。
私はあの者が縮こまらせた腕を、根本から無理を強いて開かせた。皮膚の奥、骨筋の曲線を撫でる。熱や疼痛が生じていても、私には分からない。この腕は今も昔も禍いで、私がそうであると思いたい象徴だった。
あの者は私の下で藻掻いた。皮下に指が沈むほどに、存在を感じる。私は信じて手をゆるめた。背の腕が私の頬を打ち、そして雨垂れるように顎先に指が流れ、留まった。私は両手でその掌を包んだ。やんわりと包んでいた蕾から、腕は背に返すまでもなく、静かに畳まれた。
この者は、私の知る誰でもない。しかしこの時、五感は得たと云った。私は背の腕というものが分からなくなった。
私の下から這い出たあの者は、そのまま這って部屋の隅へ身を寄せた。あの人の椅子へ腰掛けることのない姿に、気が沈む。
豊満とまではいかずとも、やさしい稜線を描く頬と、やわらかな髪。黒眼の透けるうすいまぶた、些か情のない無口な唇。稀薄だった気配をしっかりと肋骨の内に囲い、肌で覆い合わせ、脈打っている。私はあの者に背を向けた。壁際の姿見から布を外せば、そこには知人が立っている。そして知人の背後には、知人を長く見詰める者が居る。
五月九日
行為がどの琴線に触れたのかを、お聞かせ願いたかった。
五月十六日
燕の巣の真下に雛が落ちていた。私が拾うより先に、あの者が片手でその毛束を掴んだ。あの者は握り拳のにおいを嗅ぎ、拳からはみ出た、まだ鞘の残っている細い羽根の感触を確かめていた。そこまではよかったが、おもむろに口にいれようとした。例の如く、私の手が先に出た。拳を遠ざけさせたが、あの者は余程心奪われていたのか遠ざけられてもなお口元を近寄せようとする。仕方なく、片手であの者の口を覆った。蓋をされた口が指の下でなよやかに動く。唇に挟まれ、指の腹が半ば呑まれた。啄むように吸い付かれる。快とも不快とも言いがたい。
手元への注意が疎かになったところで雛を取り上げた。手篭められていたはずだが、私の肝ほどは潰れていなかった。
七月十二日
軀の一部は、粗末に扱われたことに反して信仰されている。
幾度も撫で、腕の内側にも触れる。正しさを確かめるほどに、縋る者の手つきは無作法になる。
眉間に凝りきらない戸惑いが、あの者の相貌に奥行きを与える。私はあの人が傍らにいようとも、具象に掌をかざし続ける。
半ば透け、明瞭さは濁り、輪郭が散る。霊応が五感を差し向ける。一度でも息の吹きかかったものが発する波の喧しさには溜息がでる。
八月二十四日
もし、この者が毛むくじゃらの畜生だったならば、私の足元で四六時中戯れていたとして、歯牙にもかけなかっただろう。蔑ろにしようとは思わないが、節度がある。
共に暮らすことについて、気の向くままに、人に施すには不足、鳥獣に対するには過剰、あの者にとっては、もしかしたら本来は不自然な習慣を強要して過ごさせているのではないか。
十一月一八日
その者に触れてはいけない、と蒐集家に釘を刺す。「よくよく承知致しました」と蒐集家は言うが、手元は正直だ。彼は私の前だと、後ろ手を組む。表向きだけでもご立派である。
十二月十三日
盛んに発せられる音の元を、あの者は不思議そうに見つめる。理解ができずとも、心は汲まれるだろうか。私は座敷に六つの肢をだらりと伸ばして寝そべる姿を見下ろす。
お前の悪い癖だ、と物申す。
Ⅴ
一月二十七日
立った時、あの者の頭頂部が私の肩に並んでいた。迫る眼に情を探し、度々覗く。大抵、はっきりしたものは何も読み取れない。それでも日に何度も眼が合う。矯めて視られて、ふと外される。私が顔を向けるや、あの者は眼を伏せる。同時に、喉を動かすこともあった。
着物の袖から自然と垂らされた腕のうち一対は、どことなく痩せ細って植物のようである。
二月十九日
身に回される枯れた腕が、時折首筋まで指を届けてくる。自分はひっそりと目尻をゆるめ、その腰に手を当てる。これ以上はない。冷めた日向の匂いがする。私の掌は熱を帯びているが、この軀は溶けない。
眼前の者へ、あなたは人間ではないのでしょう、と問う。否定も肯定もしない。口のきけないこの生きものを好ましく思う。
三月二十九日
精神が密封された軀のどこに留まっているのか、ついぞ知り得ず、少なくとも身の周りには、軀を離れても己が持続するかどうか、証言をしに帰ってきた者はいなかった。
塵が同じ形に集まることは、如何に成し遂げられるのだろう。記憶の中でさえ、全く同じ時の、土の、風の、物体の、霊的存在の、再現はない。既視感を抱いた自分がそこにいるだけで、以前とは異なっている。信じるとは、存在しない私が感じている響きのようなものだ。
地上に滞留する。霧がかかった姿で、あちこちへと散らばる。鋭敏だった感覚が流れ、全てが通り過ぎてゆく。何かが去ってゆくのはわかる。しかし、それが何なのか感じとることができない。軀がない。触れることも、考えることも、かつての記憶を道標にした虚構だ。
何もかも置き去りに、それでも、消えてはいない。醒めた夢の中で、美しいとも醜いとも思えない世に在る。
目を閉じ、耳を塞ぎ、感じられるのは、あの者がそこにいるということだ。
深くこもった音色が淡く届く。雑多に伝わってくるはずの、生命の音がない。過去に響いている音を聞いている。
左から聞こえていた旋律が背後に回り、右へゆったり流れる。やがて前方へ。そして左へ。周遊する。輪になった旋律の中央で立ち往生する。どこにもゆけない。奏でられている場所は知覚の埒外だ。そこには誰もいない。私を知らず、また私も知らないなにものかが、これといった軀を持たず漂っている。漫然と、無頓着に、翻る。鈍く光る。それが何であったのか……。
滔々と関係を満たすはずだった時間が、私には流れていない。
全ては重なり、なにものでもない潮流へ溶けてゆく。ひとつにはならない。離れた場所で佇み、やがて消える。
私は、卓上に積まれた日誌を見遣った。箱の中にしまわれていたものだ。正午の日差しが窓から室内へ注がれている。既に薄暮を思わせる弱い陽は、部屋の隅までは届かずに、物と影との境をぼかす。
蝋燭を吹き消す。耽ることのできる心象を私は託されたのだろう。
埒外へ。人はこれを、さようならという。自分たちには、感じられなくなってしまったので。