カイエ
更新・・・随時


 引越しをしようかと物件見学に行った。その物件は歪なドーナツ型の建物で、いわゆる穴の部分には低木や草が植わっている花壇があり、オートロックの玄関を入らないとそれを見れないのが秘密の花園のようで素敵だったが、湿って陰気な雰囲気が漂っていた。廊下の手すりに、やぶれかぶれの汚れきった傘が何十本もコレクションしてあった。ゴミ捨て場には、生煮えの豚の皮のような乳灰色の何かがぐったり伸びていた。建物の角という角が暗い。日が当たっているはずの外廊下に明るさが全く感じられない。澱んでいた。
 引っ越しは諦めた。夕飯にたまごあんかけチャーハンを食べた。




 昼間の商店街を歩いていた。すると、正面方向から腰の曲がったおじいさんが神経質そうにひょこひょこ歩いてきた。何か口の中で唱えている。おじいさんは急に叫んだ。
「もーダメだ! ガマンできない! 漏レ──」
 私は元々歩くのが速いので、おじいさんが叫びだした頃にはすっかりすれ違い、声は後方へ遠ざかりつつあった。結末を知るのがおそろしく、復路に同じ道を歩けなかった。




 昨日、大きな鏡を三枚購入して、文机を囲うよう置いてみた。ものを食べたり、こうやって文字を書く間も、自分自身の姿と対峙している。自分を見つめても面白くはない。険しい顔と目が合う。鏡の中の自分と目を合わせると、右横の鏡のさらに奥の鏡にいる自分から視線が飛んでくる。
 三面鏡に映る世界のどこかには、悪魔がいるという噂を聞いたことがある。どこで耳にしたのかは覚えていない。覗き込んで、何枚も奥へ奥へと重なる鏡のうちに、姿を探してみる。ふと何かがよぎったような気配がする。気付かないふりをして、つい俯く。




 夢の中で私が住んでいる家は、だいたい駅から二十分以上離れたところにある。太い道路を渡って、線路の金網を左手に歩き、歩道橋を通り過ぎた後に鉄塔の見えるゆるい坂道を登り、地域一帯に家はあれども人が住まずというふうな場所だ。道のりはだいたい一緒だが、家の形はそのときによって異なる。十八階建団地の十五と半分階だったり、二階建てアパートの庭だけを借りていたりする。なぜそんな中途半端な借り方を、と思う。部屋も妙で、外廊下が部屋の中央を通っている賃貸や、窓のない息苦しい賃貸など、不便そうな部屋ばかりである。建物自体も、肩幅より狭い共有階段が当てずっぽうに張り巡らされているせいで一階に辿り着けない人が飛び降りを決行したり、おんぼろすぎて集合住宅なのに私しか住んでいなかったり、エレベーターが常に壊れていて停止階が運任せ且つ床が外れやすかったりする。外れやすいと知っていて「頼む、××階に停まってくれ」と祈りながら乗るのは博打もいいところである。だいたい停まらないから、建設途中の外階段を使うことになる。
 どの部屋に住んでいても共通しているのは、うす暗い部屋で、誰かに居場所を知られたか、家賃を払えそうにないといった理由で家を引き払わなければと考えているということ。現実でそのような理由で引っ越しをせざるをえなくなったことは経験したことがない。しかし夢の中では毎回、夜逃げのような危機に見舞われている。




 ヌミノース(numinous)という言葉を知った。自我の力をはるかに超えた圧倒、抗い難い魅力とも表現され、聖なるものから合理的要素と道徳的要素を引いてあらわれる畏敬の感情を起こさせる・感情が生じるようなある体験のことを指す。
 ヌミノース……ヌミノース……
 神聖な面持ちで口の中で繰り返していると、やがてカピバラとヌーを合体させた巨大なマウスがたちあらわれ、横向きの顔でビタッと脳壁に張り付いた。
 ぬみまうす、ぬーまうす、ぬーみまうす、ぬ・みのす、みのたうろす。ヌー・マウス・ミノタウロス……。




 催眠音声の手を借りて意識の階段を下り胎児の夢を遡ったところ、私の過去世は首を括った人だった。部屋の隅、どこに縄を張ったのやら、うつむいて、床のメを視界に捉えていた。さして驚くこともなく、この過去世の光景に私は「やっぱりな」と頷いた。ずっとそんな気がしていたので、催眠誘導によって妄想を濃く描き出しただけかもしれない。それかもしや、体験した過去世は私の未来ではないか。そっくりな部屋を見つけたら、それは私の死期なのではないか。こういった予感は、近からず遠からず、当たる。しかし、そんなことを言いながらも豊かに辛酸を舐め、年月を重ねて、老衰してゆくような気もする。
 結局わからない。そのときがくるまでは。




 しょぼくれた草むらの中からアスファルトの道脇、自宅の外階段にまで、たった三十分の散歩の間に大・中・小のカマキリに会った。
 全て死にかけていた。
 しゃんと立つカマキリは一匹もおらず、蹲り風に体を揺らされているか、腹を見せてうねうねともがいているかのどちらかだった。あるカマキリは、階段の踏み面にあおむけにひっくり返っていた。手のひらいっぱいに乗るくらいの大きさで、捩る腹がよく見えた。私はひいと息を呑んだ。眼下に急に現れたように見え、驚きすぎたので。それはそれは情けない声だった。
 踏まないようにしながら階段を上りきる。玄関に入ってから、私は逡巡した。わずかに備わっていたやさしさが、私の手に傘を持たせ、再び出会いの場に戻らせた。
 カマキリは変わらず、うぞうぞと足を天に向けてもがいていた。腰を捻ることのできない虫なのだろうか。詳しくないので分からない。ひっくり返ったままということはそういうことなのだろう。私のように階段を上ってくる人には気付かれるだろうが、下りてゆく人には気付かれずに踏まれかねない。
 傘の先端を、さあ抱け、とその腕に突き出した。足で立たせたら私の役目は終わりだ。どこへでも行くがいい。
 しかし簡単にはいかない。掴んだのを見てひっくり返そうとするとぽろりと体が離れてしまう。私は虫をしっかり観察したいと望……むどころか出来るだけ避けたくらい苦手なので、早くなんとか自立してくれと焦った。
 何度か繰り返した末に、カマキリは傘をしっかり抱きしめた。
 嫌な予感がした。
 予感は的中した。今度は離れてくれない。それどころか私の手元に向かって尻からよじのぼってくる。
 堪忍してくれ。お前を元の体勢に戻すまでは誓ったが、他は管轄外だ。
 私の動揺をものともせずカマキリは尻をもじもじ振りながら上ってくる。私は傘をそっと振り、この一振りでまたもカマキリがひっくり返って落ちるかもしれないことなど考えもせずにただ離れてくれることを願った。
 ぽと……とカマキリは落ちた。
 うまいこと足から着地した。
 よし、じゃあ、あとはその足で生きるんだぞ。
 私は逃げた。
 それにしても何故今日はカマキリをたくさん見たのか不思議に思って調べてみた。どうやら十月はカマキリの産卵時期らしい。産みつける枝を探していたのかもしれない。そういえば何となく腹がふっくらしていたような気がする。あれが妊婦だったとしたら、その場に置き去りにしたのは慈愛が足りなかったなと思う。思ったからといって、彼女の元には戻らないのだけれど。




 外の一部が欠けて内が露見する化けものというのは見えたその瞬間といい、蓋をされないでやわらかい部分を晒し続けている鋭敏な痛ましさといい、「触れるべからず」という境遇に不安を覚える。では、内をひっくり返したような化けものが堂々とぬたぬた歩いていたらどうかというと、それはソウイウモノなので脅威に思わない。しかし内を外にしていた化けものが、内をまるめて外を見せたら、どんなに清潔そうな肌理でもおぞましく感じるだろう。最初に出会った姿がナチュラルを印象づける。化けものは化けた後の姿ではなくて、その瞬間にだけ立ち現れる存在かもしれない。それなら、化けものであり続けるものはこの世にいない。
 さて、言葉は発した時点で既に変化をあらわにしているが、化けものと認識されない仕組みは、耳や目から入ってきた言葉は、ひとりひとりの体の内であらためて発されるからである。知ったときにはもう飲み込んでいる。言葉は限りなく近くにいる化けものだ。それが変化することに、気付かないままの。




 人間の感情について。四つに分けると「喜怒哀楽」。感情を表現するには、飛び跳ねる、拳を振り上げる、叫ぶといった動きの他に、言葉という手段がある。では、その感情を伝える言葉はどれくらいあるのだろう。
 表現の数が多い、幅が広いということは、それだけ感じているということで、伝えたい想いも大きいのではないかと思う。しかも長引く感情だ。時間が経っても反芻しやすければ、表現の幅も広がる。臨場感をもって伝わるかは別として、この味は何だろうな、と考える余裕と割ける冷静さは豊かさに繋がるはずだ。
 そこでもし「喜」の表現が多かったら、人間は根から幅広い喜びに満ちているという結論に至れる。そんな気がした。
 さっそく類語辞典を開く。ざっと見たところ……怒・哀が、圧倒的に多い。喜・楽のおおよそ二倍だ。それだけ多くの怒りや哀しみを人間は表現しようと、せっせと言葉を紡いだらしい。「生き残るには危険から身を遠ざける方が手っ取り早い、だから嫌な記憶ほど脳に残りやすいようになっている」と誰かが云っていた気がする。言葉もその通りだった。人間は怒りと哀しみに生きている。愛だ喜びだ幸せだ、と単純な言葉を繰り返し口にするのは、保ちにくい性質だからだろう。そうして主張されるのは、脅迫的欠乏感。かなしい生きものだ。




 人が「眠っている間に見た」という夢を書いた文章で、面白く思えたものがない。
 荒唐無稽、支離滅裂、破綻した物語に見合わない合理性が現れる陳腐な表現。そして、お約束かのように描かれる性的な象徴、直接の裸体。またその繰り返し。絵ならまだ抽象を伝えることができようが、文字は整然としすぎる。
 商業の文章さえそんな調子なので、他人に自分が見た奇天烈な夢を語るなぞ、退屈で旨味のないことの代表だと思っていた。
 けれど最近、人から夢の話を直に聞く機会がどういうわけか多く、その話を聞くことを楽しんでいる自分がいることに気が付いた。積極的に人の話に耳を傾けてさえいた。
 生身の人間の声(=音)からは文字で綴りきれないイントネーションを拾うことができる。話の続きを促すことも、解釈の片棒を担ぐこともできる。会話はリアルタイムで行われる夢の続きのようなもので、スペクタクルに取り込まれ、共々流れてゆく。
 夢を思い出しながら喋る人の横顔を盗み見る。彼らは皆、近いどこかを眺望する不思議な眼差しをしている。




 自動車道の遮音壁の下に、ヒヨドリが蕾のように丸まっている。死骸だった。私はその横を通り過ぎた。そのままにしておけば自然に還る。コンクリートの上に横たわっていたとしても、どこかから自然はやってきて、ヒヨドリを連れ去るだろうと思った。
 しかし、しばらく歩いて、どうも後ろ髪を引かれる。来た道を引き返し、ヒヨドリを手に拾い上げた。
 やわらかい羽毛の奥に貝殻のように薄くて固いころりとした体があった。手のひらにくつろいで収まる。目が細く開いていた。乾きかけて膜を張っている。濁りのない暗い目だ。ヒビの入った硝子玉のようだった。そっと体をひっくり返すと喉に赤い血管がはしっている。くちばしの先が砕けていた。壁にぶつかって死んだらしい。
 どこかにこのヒヨドリが安らげそうな場所があるだろうか、と探して歩く。手にヒヨドリを載せていると、すれ違う人が体の向きを変える。
 手のひらがあたたかい。羽毛と手のひらの間がじんわりぬくまって、ヒヨドリがまだ生きているのではないかと思えるくらいだった。けれども生きているはずがない。……どの瞬間だったか、土を探すうちに、あたたかいと感じていた手のひらが、ふ、と冷たくなった。
 ふらりと雑木林に入る。頭上から鳥の囀りが盛んに聞こえる。ヒヨドリを拾った場所からたいして離れていない。もしかしたら、このヒヨドリも生前にこの樹の上で囀っていたことがあったかもしれない。
 低木の陰に葉の寝床をつくり、松の枯れ葉をかけて寝かせた。




 学生の頃に住んでいた場所は川と雑木林が家路にあり、狸が頻繁にコンクリートで固められた道路を横断していた。私が家路を急ぐ横で彼らも生活に奔走し、たったたったと目の前を通り過ぎる。街路灯の下の狸は黒くてむっくりしている。むっくりと丸くても、毛の奥に野生の引き締まった体があることが伝わってくる。私は彼らを見かける度に凝っと見て、その尻尾が草むらに消えるまで目を離さないが、彼らはこちらを一瞥もしない。




 夜に電柱を見上げると、頭の大きな胎児が及び腰で細い支柱にしがみついている。月か星を探そうとしたが、大人よりも大きく膨張した胎児がとげとげしいコードに繋がれて街路灯に照らされているばかりで、その向こうに夜空はなかった。底冷えのする夜だ。明日はもっと冷え込むと聞く。




 ある年の引っ越しでは、持っていたのは衣類・貴重品・数冊の本・日記帳と筆記具・ノートパソコン・携帯電話・電気膝掛けだった。ボストンバッグに収まる量で、引っ越してからそのまま一年間、家具を買わずに過ごした。部屋にカーテンをかけることもしなかった。段ボールを敷いて、コートを掛布団代わりにしていた。「誰に居所を知られようと、いつでも飛び出していけるように」と身軽でいたかった。
 今はその頃に比べると所持品が増えた。快適さや安定に目を向けるようになり、住みよくはなった。けれどもたまに、快適さのために活用されているものたちを重荷に感じることがある。




 図書館から借りた本から柔軟剤の香りがする。ページをめくると、やさしい香りがふわりとたちのぼる。この本は、香りがしみわたるくらい、開かれては閉じ、懐に持たれては伏せられ、ひとつの家でゆっくり読まれてきたのだろう……と香りをたのしんでいたら、『天に染みあり』とラベルが張られていることに気が付いた。




 住んでいる部屋の隣は半年以上もの長い間、空き家だ。郵便ポストはガムテープが貼られたままで、誰かが引っ越してきた形跡はない。しかし、たまにその部屋から人が暮らしている気配がする。歌声であったり、ごとりと床にものを置くような音であったり、蛇口の栓を捻るような、きゅっという音もする。全て、壁の向こうに誰かが住んでいる音だ。ポストを封印したまま住んでいるのか、私がずっと勘違いしているだけなのか、不思議だ。




 どっちつかずでいるというのはどちらのおいしいところも食べたいという意地汚い欲望です。しかしどちらかであることが美しいというのではありません。到底のぞめず、削ぎ落とせないとわかっているものに美が宿ると私は思います。そもそも叶わないことに、どうやら価値を見出すようです。
 不完全なものの内に美があるということも考えられますが、現実には隠そうとする壁があまりに厚く汚らわしく目もあてられないので、美が奥にあるなどと見入る隙がありません。露出されていない美は、結局美しくないのです。




 ばあさんがつけているブローチのような虫がいた。おばあさんではなく、ばあさんである。粒の模様がビーズのようで、ぴかぴかしていた。その数歩先にはヤモリが脱皮したらしい皮がぼろぼろになって落ちていた。擦り切れた魔法使いのローブのようだった。




 ヤン・シュヴァンクマイエルの妖怪コラージュを部屋の壁に貼ってから数週間。セピア色の紙が二十枚、ぎっしり並んでいる景色もすっかり馴染んだ。掃除や、ネットサーフィンの途中にふっと視線を上げると目に入る。ベッドの中に天狗の頭がある絵であったり、がしゃどくろが召使の装いで寝ている姿を覗き見していたり、女の人面犬が石頭の子にとびかかっている絵だったりと、どの絵もどこかしら不穏だ。しかし色調がまとまっているからか、不思議と落ち着く。なんとなく眺めてしまう。癒やされる心地がした。
 ところが、そんな安らぎを絵は裏切った。ぱさりと勝手にはがれて落ちたのだ。ほんとうに驚いた。部屋に私以外の人がいるのかと思った。どきどきして、まだ床に絵を落としたままだ。拾うのは明日以降にしようと思う。




 そこにありそうでなかったが、しかしやはりあったのではないか。恐い話となると、人が発狂したり死んだりと、明らかな生命の危機に晒される話が多い。それらはやはり恐いことは恐いのだけれども、実際に遭遇する怪異というのはもっと日常的で頻繁にあるのではないかと思う。ただ見落としていることが多いので怪談になっていないのだろう。遭遇していても不思議だなと思わなければ記憶に残るわけがない。人生に影響を与えないが、ちらちら見える。その瞬間を怪しと言う。




 凪いだ気分だ。半分眠っているような心地で過ごしている。生活費を稼ぐ仕事が、複雑なものでなくてよかったと思う。おかげで落ち着いていられる。けれどもこの状態を保っていていいのか、不安になる。それはとても薄い膜のような不安だ。あまりにも薄く、ぱっと目には見えないので、無視をしようと思えばできる。不安の膜などないのだと思い込もうとする。それでも膜を感じるとき、別の方法で、膜は誰にでもあるものだと自分を慰める。膜のない人生は誰ひとり送っておらず、架空の人間生活で、作られた話の中にしか現れないと考える。
 昨晩は夢の中で、友人が自殺をした。夢の中の私が数ヶ月後に決行しようと密かに計画していたことを、その友人はさらりとやってのけた。私は友人の前兆を見抜けなかった。最後に会ったとき、私は友人に再会を約束していた。離れるのは私の方だと思っていたからこそ、できた約束だった。
 亡くなったと聞いてもなお、私が感じている世界には友人が生きている気配があった。私が先に友人との約束を反故にするつもりでいたし、友人は私のように嘘の約束をする人ではなかった。誰が何と言おうとも、私には友人の存在が感じられた。どこかで生きているという感覚。ただ、私に会いにこないだけなのだという確信があった。
 だから目が覚めたとき、数秒の混乱の後に現実が周りに戻ってくると、「ほら、感じていたとおり」と小さく息を吐いた。夢だったじゃないか。携帯を見ると、渦中に勝手に据えられた友人からのメッセージが届いていた。私が数日前に送っていたメッセージへの、簡単な返信だった。微笑ましくて、涙が出た。




 説教くさい物語なんてうんざりだろう、という語り部に、そうだその通りよく分かっていらっしゃる、と拍手をした。この語り部は信用できるかもしれない。期待を胸にしていたが、話が進むと〜傲慢さの罪と本当の愛について〜記した垂れ幕が天から下りてきた。それはまだ黙って(仏頂面をしつつ)受け入れてもよかったが、物語を閉じた後がいけない。後書きに寄せて、編者が著者の博識さを現実の知識の実例を引っ張ってきて褒め称えたばかりに、前のめりに信じようとした物語が、フィクションだということがはっきりしてしまった。その物語は本来であれば、自分の身にも起こるかもしれないという想像の余地を残すような物語だった。
 こうして人は人の善意を前にして、失望し、あったはずのもうひとつの世界から引き剥がされてゆく。よろこぶのは「自分は子供の心を忘れていない」と思い込んでいる人だけだ。




 雑木林を訪れた。年始にヒヨドリを埋めた場所だ。頭上で鳥たちが囀っている。松の枯れ葉をかきわけた。骨は見つからなかった。




 ちらっと霊が見えるのは歓迎されない。これは一般的な心情だ。しかし時と場合によっては、霊のチラ見えも喜びをもたらす。見えるものが増える経験は、好奇心が充たされる。
 ただ、たとえ見えることに喜ぶ人間であっても、最初から両手をあげて喜ばないのは、その霊が見知らぬ人であり、自分に害をなすかもしれないという不安があるからだ。眠れなくなるのは勘弁してほしいし、理不尽な呪いも避けるにこしたことはない。生きていようが死んでいようが、自分のプライベートに礼儀もなく押し入られたら不快に思うのは当然だ。不適切なコミュニケーションをつづけて、いつまでも健康でいられる人間は少ない。霊が健全な親しい知り合いになってくれるなら嬉しく思うという塩梅が、生きている側にとって都合がよい。




「電線には、たまに人が座っているね」
 と言ってみたら同意を示した友人がいて、今はもう縁が切れてしまったが、思い出の中で印象深い。
 海辺で波の間に立つ電柱の景色を学友と眺めていたときは、前触れなく寂寥とした思いに囚われた。現在はその海岸は封鎖されている。
 まっすぐでも斜めでも、コンクリートでも木でも、電線に繋がれて柱が並んでいる光景は、人のしがらみに見える。彼らは私の頭上で手を繋いで黙り込んでいる。
 日本の道路を全て無電柱化するとなると、約二千七百年かかるそうだ。地中に埋める無電柱化は昭和六十一年から始まり、整備をすすめている最中だと謂う。二千七百年もかけていたら電柱は電柱としての役割を失って、地面に埋められていそうである。




 まとめるまでもない短い話。

 まだ少女だったミヤは「懸命に務めさせていただきます」と私に頭を下げて言った。かぼそく聞き取りにくい声だった。拙いが、それでも私は雇うことにした。適正があるかなどは、どうでもよかった。務めると言っている。それだけで。
 ミヤは私が話しかけても目を伏せたままで、紺色の前掛けの前で重ねた手に拳を握るか、膝を少し折り曲げて声を出さずに返事をする。私は、はじめこそ声による返事がないのを不満に思い、ミヤにしつこく言い迫ったが、頑なに口を聞こうとしない彼女に根負けして次第に要求しなくなった。返事をしないこと以外は、ミヤは一度伝えたことは必ず守り、やり遂げ、忘れることがなかった。
 ある日、雇い人たちの部屋の扉が僅かに開いていた。内の光が廊下に漏れている。話し声が聞こえた。声の主は、数週間前に迎えたばかりの老婦人のものだった。ひとりごとかと思った。しかしどうも調子からして、他にも人がいる。話し相手がいるらしい。私は扉の前にそっと立ち、耳をそばだてた。
「旦那様の奥様、あの御方の顔色の悪さといったら……あれは気味が悪いですよ。昔のお写真を見せていただきましたが、今とは別人のようではありませんか。まるで土の下にでもいたかのような色です。病気かと思いますね。あの神経質さ、落ち着かなさ。どこか療養所でお休みになられたほうがよろしいのではないかと私は申し上げたくなります。というか申し上げたのですが、片側の口の端をね、こう、クイッと引きつらせて頷くだけで、ちっとも取り合ってくださらない。心配損です。何か大きな隠し事をしているように思えます」
 たしかに私の妻は、体調が思わしくないように見える。ただそれは周期的なものだと私は思っている。あれも何か甚大なことがあれば私に黙ったままではいないだろうから、話をしてこない限りは放っておいている。だがさすがに生ける屍かのようと言われては、もっと気に掛けてやるべきかと揺らぐ。
 顎を撫でて思案していると、老婦人の声の後に、さやさやとそよ風のような掠れた声が聞こえてきた。
「……奥様はご病気ではございません。たしかにとても繊細な方でいらっしゃいますが、それはこの時期の旦那様を想ってのことなのです。三年前のこと、奥様は宣託で『いつか春の頃に最も大切なものが狂うだろう』と受けたのです。奥様はまさか旦那様がとお考えになって、それがいつの春のことなのか、季節が巡る度に気が気でないのです。春が過ぎてしまえば、また一年は大丈夫と胸を撫で下ろすことができます。あの御方は、夏は輝くように美しく笑うのですよ。旦那様のお心を乱さないように、静かに胸の内にしまっていらっしゃる。わたくしはそんなふうに耐え忍んでいるお姿を……あのように……憂いた横顔……それでも……」
 ほうとやさしい溜息の音がした。それを聞いて、私はこの娘を雇ってよかったと思った。




 自転車に乗って、その場所に初めて行った。山を幾つか超え、地図を片手に苦労して辿り着いた。着く前に日が暮れるのではないかと思った。公共交通機関が通っていない場所だと思っていたが、着いてみると電車が走っていた。二両編成の電車である。奥の秘境だと聞いていたのに、両方向に伸びる線路に私は目を白黒させてしまった。しかも秘境は、しっかりとした観光地らしく温泉宿や足湯が至る所にあった。石畳も敷かれている。私はかなりの遠回りをしてやってきただけだった。解せないなあと思いながらも宿に泊まった。
 そこの宿の主人は狐のような咳払いをし、夜になってみるとやはり人間ではなかった。おいそれの間に、顔のない浴衣の男や狸の団体、山風の客が宿帳に名を書き込み、宿は魑魅魍魎だらけとなった。
 まあそれはいいのだ。何が同じ宿に泊まろうが、別に私が食われる訳ではないのだから。
 私は坂の上にあるという露天風呂を目指して、桶と手ぬぐいを片手に出掛けた。日が暮れる。夜がきても、ここは温泉街ゆえに道に行燈が灯っており、迷うことはない。ただ奇妙なのは、夏なのに秋の虫が草むらで鳴いている。露天風呂には桜の花びらが浮いている。自分が知る四季の光景とは、ちょっとばかりズレている。それでも、よい湯に浸かれればそんな常識は些細なことだ。
 翌日、私は自転車に乗って、夕立に遭いながら行きに通った道を戻り帰った。
 で、その温泉街にまた行きたいと思って行こうとするのだが、地図で見つけられない。一度行ったことのある場所だからと記憶を頼りに自転車で走りだすが、知った道に出会えない。地名を思い出そうとしても、思い出せない。たしか、『手』という漢字を使った名だったはずだ。うんうん唸って首を捻る。景色だけは覚えていた。あの場所に向かう途中の段々畑で揺れていた金色の稲や、山道で見上げた一枚岩から降り注ぐ滝。橋の脇に道祖神。木々をくぐって、ぽつんと立った電灯を右に、ゆるやかな坂を下る。澄んだ川に吹く冷気。こんなにもくっきりと思い出せるのに、いざ足を運ぼうとすると、その景色も霧がかかって頭から消えてしまう。そして離れるとまた見えるようになって、行きたいという気持ちばかりが募る。
 もう二度と行けないのかもしれない、と肩を落としかけたときだった。
「思い出した!」
 私はパッ! と目を開け、枕元の鉛筆を手に取った。そして脳裏に甦った地名を手帳に記録しようとした。
 これであの場所に行けるぞ! やった! 今度の休暇はそこへ旅行しよう!
 しかし書こうとした瞬間から、いかに荒唐無稽な発想で夢の中の地へ旅行しようと意気込んでいたのか、押し寄せてきた現実の感覚に高揚は潰えてしまった。




 家を空けるときのために、昔、最も身軽だった引越のときに選んだ所持品を書き記しておく。


▼28㍑のボストンバッグ(1泊10㍑がサイズの目安らしい)に、貴重品・衣類・精神的なよりどころになるものを詰める。

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【貴重品】
財布(現金)
キャッシュカード・通帳
身分証明書(運転免許証・保険証・パスポートなど)
印鑑(実印・銀行印)
年金手帳

【衣類】(3日分。身につけている分を含む)
下着×3
肌着(春夏)×3
肌着(秋冬)×3
長袖シャツ×3
羽織り×2
ズボン×2
部屋着×1
靴下×3
靴×2
コート×1
ハンカチ×2
手提げ鞄×1

【その他】
スマホ
ノートパソコン
充電器(スマホ用・PC用)
ヘッドホン
電気膝掛け
日記帳
筆記用具(シャープペンシル・替え芯・消しゴム)
本(6冊前後)

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 身分証明ができれば、パスポートや年金手帳は再交付が可能。
 印鑑は変更の届け出を各機関に提出すればよい。
 お金があれば大抵のことは解決する。

 電気膝掛けは重宝した。冬の間、暖房の代わりに。夜は床に敷いて布団代わりに使える。


▼以下のリストは定住先で買い足した暮らしを整える消耗品と家具・家電類。

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【消耗品】
石けん
シャンプー
ヘアオイル
衛生品(薬や日焼け止め、リップクリームなどの化粧品)
トイレットペーパー
ティッシュ
絞れるキッチンペーパー
台所洗剤
トイレ洗剤
漂白剤
洗濯洗剤
ウタマロ洗剤
スポンジ
バスブラシ
サランラップ
ガムテープ
ゴミ袋
防災セット

【日用品】
歯磨きセット(歯ブラシ・歯磨き粉・フロス・洗口液・ショットグラス)
ボディブラシ
石けん置き
タオル4枚
爪切り
耳かき
浄水器
ティーポット
ティーコゼー
コップ
スプーン
フォーク
お椀
丸皿
ペティナイフ
フライパン(18センチ)
フライパンの蓋
マルチポット
まな板
ざる
おたま
フライ返し
大さじ
ちりとり
はたき
羽毛の掛け布団
薄手の毛布(ダブルサイズ)
ハンディシュレッダー
はさみ
ハンガー
ミニ裁縫道具(針・針山・糸・糸通し・糸切り鋏)
靴磨きセット(ブラシ・クリーム・布巾)
遮光カーテン ※窓を1枚で覆えるサイズ

【家具】
椅子

【家電】
シェーバー
冷蔵庫(冷凍庫つき)
洗濯機(ドラム式・乾燥機能あり)
ドライヤー

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 羽毛布団などのシーズンものや防災セットを除き、家の中にある物は、ほぼ毎日、手に取って使う状態でありたい。
 これらがあれば自分にとって充分な快適さを保つことができる。それが分かっているだけで、何度でも暮らしを立て直せる気がする。




 パスタソースをきしめんうどんにかけてもよいという自由が私にはある。

 ミートソース……たらこクリーム……カルボナーラ……うどんはしっかり水を切ること。

 不思議と、そうめんにパスタソースは好みじゃない。麺が太いだけで評価している可能性が、ちょっとある。

 今日もうどんを買ってきた……どうしてフェットゥチーネを選ばないのだろう。




『世のどこかには、似た者がいるのだろうと思って、これを書くことにする。

 ……書くことにすると記しながら、もう記すことがないと思い始めている。
 どのように生きるかということを、誰に何を主張する必要があるのだろう。彼らも私も、とっくのとうに個々の人生に取り組んで生き、死んだ。 
 この文は、あるべき姿を鼓舞するためのものではない。不自然に折れた樹木のトンネルや、漂着した空のメッセージボトルのようなものだ。

 蔭に立てば、殆どの人には気付かれない。気配を感じたのか、目を遣ってきた人も、そこに見るのは暗がりばかり。何もないと判断すれば、やがて目を逸らす。
 無知と不寛容の茨を小刀で切り落とす。獣道の先の小屋で、暖炉にくべる。燃える火が照らすその姿の影に、静かに佇んでいる。これを孤独といって嘆き悲しむべきだろうか。』




 縫い目や手触り、大きさの印象を知りたくて、写実的な造形の猫のぬいぐるみを購入した。イタリア製である。長毛種の猫で、おそらくペルシャのゴールデンと思われる。曖昧な理由は、輸入のアンティークぬいぐるみで情報がなく、ぬいぐるみの特徴と合致する猫がいないからだ。平坦なマズル、狸のような丸い耳、額に縞模様の毛が生えている。ペルシャに似ているが、琥珀色の目と毛色の組み合わせが、既存の品種に合わない。
 手元で見たことで、ぬいぐるみを作るときに注意を払うべき点が分かった。まず、あまりに造形がリアルだと剥製のようで、癒やされるような可愛らしさとは離れる。リアルであるがゆえに動かないことに違和感がでて、怖い。動きそうで動かず、落ちつかない。目に入る度に本物か否か判断を試されることになるので疲れる。そしてリアルであるからこそ、リアルにはないであろうモノとしての雑さが目に付く。毛繕いをしないがゆえの、体毛の乱れだ。違和感を覚えてしまう要素のひとつだろう。抱き上げたときの軽さと、体の芯の硬さも、硬い厚紙に毛をはりつけているかのようであたたかみに欠ける。
 欠点を色々挙げたが、よいところも勿論ある。見た目については太い足とふさふさの尻尾がとても可愛い。やや不満そうな目と口元も可愛い。胸元から足下にかけての体毛の膨らみがすばらしい。うなじから腰、尻にかけての曲線もなめらかで、撫で甲斐のあるくびれをしている。毛の下で呼吸をしていそうな、自然なボディラインである。
 しかしどうも私がぬいぐるみに求めるのは、くったりとした重さと柔らかさらしく、このぬいぐるみでは満足できない。素材かデザインのどちらかでデフォルメをしないと、ぬいぐるみが得意とする安心感には繋がらない。今回の購入品は理想のぬいぐるみではなかったが、学びになるいい買い物だった。




 日中を怠惰に過ごすと、夜の夢がとんでもなく面白くなる。一日を取り返したい脳は、埃が出るまで私を叩く。あの手この手で繰り出される夢は、私の目に涙を浮かばせたり、にやにやと笑わせたり、恐怖に慄かせたり、ナルシシズムに浸らせたりする。
 夢はいずれ途切れる。ふっと目が覚めるときがくる。私は惜しむ。一瞬前まで自分は充実した世界にいた。だからすぐに戻ろうとする。眠りから目覚めた私の現実は、布団に横たわる自分にはなく、目を閉じて見える世界にある。
 目を閉じても、夢の世界はたったの一秒も待っていてはくれない。布団が現実みを帯びるなら、そのときにはもう遙か彼方へ消えかけている。まず追いつくことはできない。
 布団に取り残されて、たしかに真実だった世界を、思い出すことのできない思い出として懐かしむ。暇人の時間つぶしである。




 世の中の人は、お喋りと食事を器用に両立させているように見える。
 私は料理に注意を向けると、カトラリーを口に運ぶまでの手の動かし方や料理の色・風味に気を取られて会話をおろそかにしてしまう。かといって会話を気にすると、皿の上で無駄な動きが増えて食べ物の味が分からなくなる。ちょうどいい塩梅がなく、どちらかが犠牲になる。だから不味いものでも「おいしい」と言うし、おいしいものでもろくに味わわずに飲み込んで何を食べたか忘れる。
 たちの悪いことに私の頭の中には花が咲いているので、黙っていても味に集中していないという時がままある。頭の中の花は全く深刻なことはなく、道端の、ぺんぺん草くらいの面白い花だ。たまにこのぺんぺん草を目の前の相手に渡せそうな機会がやってくる。私と食事を共にする者が一本のぺんぺん草を喜ぶ相手ならいいが、そうでなければ全く面白くないだろう。大抵の人は私の脳内のぺんぺん草に理解を示してくれるものの、相手の笑顔を引き出そうとすれば私はぺんぺん草を百本の束にして振り回さなければならない。百本も束ねたら、それはぺんぺんどころではない。デンデンとかダンダラとかドンシャンとか、別の草である。




 学生の頃の思い出。
 修学旅行で、消灯後にお喋りがはじまった。
 同級生たちは賑やかで優しかった。どのような内容でもいいから、暴露話をするということで、教室でほとんど喋ったことがない私のことも仲間にいれてくれた。
 一人目が話したのは、好きな子のことだった。
 二人目が話したのは、はじめて恋をした漫画のキャラクターのことだった。
 三人目が話したのは、漫画に影響されて自分には超能力があると信じ、能力もないのにそれらしい態度をとっていたことがあるということだった。
 四人目が話したのは、本物の霊感があるらしい祖母のことだった。
 そして五人目。私の番だった。
 これといって話すことが思い浮かばず、困った。しかし黙ったままではいられない。せっかく楽しげにしているところに水を差すことになってしまう。そこで四人目が披露した心霊話に則って、話を捏造することにした。
「あまり見ないほうがいいと思うんだけど、この部屋の天井の換気口、ちょくちょく誰かがさ、指を突き出してきているよね。みんながいないときに、ふと天井を見上げたら、グリグリ動いていたよ。さっきも……」
 ぎゃあっとあがった悲鳴は、笑い混じりの愉快なものだった。いささか話を装飾しすぎた気もしたが、夜の特別な空気が私を助けてくれた。怖がりすぎた者は面白おかしくからかわれた。
 そこからは怪談話に花が咲いた。見回りのために部屋を覗いた教師の
「寝なさい」
 と言う低い声も効果的な舞台装置となる。
 でっちあげが功を奏し、楽しい雰囲気を壊さずに済んだことに、私は胸をなでおろした。
 翌日の夜、夕飯前の自由時間に部屋へ行くと、昨晩枕を並べた生徒が珍しくひとりぼっちでいた。私は
「そろそろ食堂に行かないと」
 と誘ったが
「うん……」
 と煮え切らない返事だ。その子はチラと天井を見上げた。私も見上げた。
 換気口から静かに空気が流れる音が聞こえる。
 その子は上を向いたまま
「あそこ……」
 と呟いた。声が震えていた。
 昨晩の私の作り話のせいだと思った。下手に怖がらせてしまったことを反省し、本当のことを話そうと心に決め、息を深く吸った。
 しかし私が話を切り出すより先に、その子はまばたきひとつせずに言った。
「やっぱり、いるかぁ」




 イギリスに対して、日本と同じ島国だというところに私はやけに親近感を覚えているのだが、どうも人の気質というか、超自然的な力の扱いは異なるように思う。イギリスが剣と魔法の国だというのなら、日本は刀とまじないの国で、使う道具を並べるなら、杖(英)と札(日)だろうか。
 魔力の扱いについて、杖は向けた先に作用する。エネルギーは自分の内部にある。札は自然から力を授かり、別のものに作用させている。エネルギーは自分の外部にあり、自分の体は媒介だ。
 ところで人間は鳥のように飛ぶことはできず、体ひとつで出来るのは水平方向への移動である。飛ぶ・浮くといったことは、人間は鳥や虫、ふわふわの綿毛ではないので、搭載されてはいない。できないことには神秘や聖を感じる。天から飛来するものは人間ではないし、授けられるものは上から下へ贈られる。
 魔法は水平の不思議な力で、まじないは垂直の不思議な力なのかもしれない。自然を制圧できるかできないかの違い(実際に自然を制圧することが可能かは別として、自然に対する意識やとっかかる姿勢の違い)があるような気がする。為ると在るの違いだろう。
 こういうことは、例をだしなさい&論理的に書きなさいとなるべきところだが、なんだか面倒くさいので、「なんとなく思った」でやめておく。全てが信用のならない所感である。




 仏僧が着る三衣のうち安陀会(あんだえ)は、古来では下着にあたるものを指しているそうだ。
「アンダーうエぁ……」
 恵比寿顔で呟く。




 どういうわけか、最近「他人のことを考えろ」とやたら見聞きする。「他人の目線でモノを考えろ」「言葉は他人にどう作用させたいのか考えて発しろ」「あなたと接する人の気持ちを慮れ」等々。
 私の気遣いは現在、『節約モード』なので、そろそろ高く志していかなければならないなあと心の底で思っているのかもしれない。無自覚に、目と耳が先に働いている気がして、では少し気をつけてみようかと思った。
 このサイトで出来る他者への気遣いのひとつは、文章のレイアウトだろう。
 Bloggerには栞がない。青空文庫のアプリケーションのように、本と同じようにめくることのできる機能があればまだしも、私のホームページにそのような機能はないし、読み込みが重くなるので付ける気もない。通信制限中でも早く表示されることに重きを置いている。
 では栞のない不便はどうするかといえば、読み手側に、スクリーンショットで管理してもらうなり、ページを開いたままにしてもらうなりすればいい……ああ他力本願。工夫を余所に強いるなんて、「他人のことを考えていない」。
 これではいかん。栞の代わりに、ほどよい文字数でページを区切っておこうか、と考える。
 エェ、ほどよい文字数とはいくつなのだ。
 紙とインターネットと比較し、1ページに何文字があるのかと調べてみると、
 ・文庫本……見開きで約1200〜1500文字。
 ・ネットの記事……1000〜6000字
 らしい。
 がしかし、だ。
 現在、長くて3万文字でひとまとまりの文を掲載しようとしている。ネット記事の平均からすると、長すぎる。3万文字は短編小説の量である。区切ったほうがよさそうだが、私は「続きを読む」ために押すボタンが嫌いだ。正確には、タイトルからページに飛んだ後に、読むためにまたボタンを押すという選択が嫌だ。二度も言わせるでないよ、一回で最後まで読ませなさいよ、と鼻息を荒くしてしまう。選択を二度、聞かれる⸺たったこれだけのことで、「そんなに先を読むか読まないか確かめてくるなら、止めておくか……」と読むのを止めてしまう。
 さらに投稿する身からすると、ページを区切るのは、面倒なのである。
 ちまちまとページを区切って、次のページと前のページへのリンクを入れて……という作業をするのは、後から編集するのも、ややこしい。どうせ数ヶ月に一編しか投稿しないのだから、地道にやればいいのかもしれないが、気持ちよくない。ページを区切るのは、文の流れを不本意にせき止めるようで、気がすすまない。
 となると、何文字あろうが1ページに載せることになる。ページを区切らないのは、雰囲気を損なわないためである。興醒めないように……と一応、考えたうえでの決定なのだ。これで何とか、他人のことを《考えた》ことにはならないだろうか。

追記:ウェブサイトの背景をすべて黒にすると、画面の反射で鏡のようになる。目に映る情報量が意図せず増えてしまうので、デザインが崩れる。画面外からの干渉は少ない方が可読性も高まり、好ましく思う……。




 虫がいない。以前は集合住宅の外廊下に、迷える尺取り虫・翅を休める蛾・転がるコガネ虫・飛ぶ蜘蛛・壁を歩く羽虫がぼちぼちいたのだが、めっきり見ない。暑さのせいで、ここまでやってくる気力が削がれているのだろうか。それとも外壁の色が塗り替わったことで、魅力を感じなくなったのだろうか。両方かもしれない。ハエトリグモと面妖な蛾が訪ねてこなくなったことだけはつまらない。こと昆虫に関して、私は差別主義者である。




 九月の末のことであるが、家の前の道路にカマキリがいた。腹に赤茶色の線が入った細身のカマキリだった。家の付近で出くわすのは一昨年以来である。そのときのカマキリの子かもしれない。一昨年のカマキリは階段の途中にいたため、踏まれやしないかと心配して私は傘を差しだした。あのカマキリは尻からふりふりと傘をのぼってきたのを覚えている。今年のカマキリは道路に居る。……こいつらはどうしてそう、いかにも踏まれそうな場所にいるのだ。すんでのところで立ち止まった私の足に、チラリと顔を向けてくる。
 私は
──お前の家族の顔を知っているよ。
 と懐かしみ、傘を差しだした。途端にカマキリは傘の石突きに乗り、短距離走選手のような早さで駆け上ってきた。 
 私は、ぎえっと慄いて傘を地面に置いた。やはり虫は苦手だ。尻から登ってきた先祖といい、本当に、苦手だ。それでもちょっかいを出すのは、不注意にもぺしゃんこにされてしまう彼らを見たくないからだ。カマキリよ、巨大生物や巨大車輪の往来が激しい道では、宙を見て呆けている場合ではない。
 傘を引きずり、道の端へとカマキリを寄せた。カマキリは怪しむかのように地面に下りた。私は今年も無事に傘を取り戻し、一方的に恩を売ったと思っている。