休符
薔薇を見に行きませんか。
その人は珍しくRを誘った。気取らぬものいいで、Rは聞き逃しそうにさえなった。その人が貸してきたばかりの、デンマークの画家の画集を一枚ずつ、めくっていたところだった。部屋に日が差している、背を向けた女がいる、机と椅子だけの禁欲的な部屋に──そのような絵だった。絵の中のほうが、カーテンを閉めきったこの部屋よりも明るい。画集の外が暗いので、ぼんやりと絵が浮く。その人はRに画集を渡したきりでカンバスに向き合ったので、部屋にはしばらく、本の頁が捲られる音だけが淡々と染みていた。
屋上の薔薇ですか。
Rは聞き返した。
その人は絵筆を止めずに、またいつまでもRの方へと顔を向けずに、いいえと言い、古い庭園の薔薇ですとつけ加えた。Rは画集から顔を上げ、その人の横顔に目をあてた。
その人の頬は太陽を知らないのだと言っていた。青銅器に白土を塗布したような、濁りのある色をしている。脇机に置かれたランプがその人の手元のパレットや布巾、水の入ったバケツをささやかに照らしていた。カンバスの裏にはフロアランプがあり、光を絞って灯されている。その人の手は二つの明かりを通い、カンバスの余白を埋めつつあった。頬の色は半ばRの想像の中で白さを保っていた。
Rは自分の予定を思い返した。規則正しい仕事が基で、就業してから数年が経っていることもあり、慣れて年間のおおよその予想もつく。同僚は休日も副業だと言っていたが、Rは必要を感じていなかった。何か溌剌ともしないが、時間のおおらかさがRに四季の流れを穏やかに感じさせていた。予定を入れられる余裕は充分にあった。
だが今まで、その人と共に出掛けることなど一度もなかった。知り合ってから、ある年は一年に一度しか会わずにいたし、半年に一度、多くても四ヶ月に一度、どちらかが思い出したかのように、ぽつりと会う。時間を空ければ話題もほどよく結晶する。Rは数える程の日々から、その人の習慣を多少は知った。
たとえば某日、Rが昼間にその人の家を訪ねた時には、不用心にも玄関の鍵が開いていた。その人の住まいはスキップフロア型マンションの六階にあった。エレベーターは奇数階にしか停まらない。七階までエレベーターで上り、内階段で一つ下るか、地道に下の階から階段を上る。内階段は偶数階に住む住人しかほぼ使わず、そのため奇数階と比べると、奥まった印象がある。六階には二つの玄関があり、両方がその人の住まいだったため、なおさら他の住人が内階段を通ることがなかった。
Rは恐々と玄関から奥を覗き見た。声を掛けても返事がない。留守かと思うほどに物音がしなかった。仕方なしに部屋にあがると、卓上に書き置きを見つけた。《買い物を頼みます》とあり、《寝ております。起こさないでください》と注釈も記されている。その人は自室に閉じこもっているらしかった。Rは書き置きを手に取った。画用紙を千切ったらしい切れ端である。反して裏面を見ると、品目が連なっていた。その人を起こす急務もないのだから、Rは書き置きの通りに買いものを済ませて戻った。不思議と嫌にならないのは、文字が丁寧な楷書で書かれていたからかもしれない。
日によって、書き置きの内容が《台所のごみ袋を捨てておいてください》《ベランダの鉢植えを屋内にいれてください》となっている。どれもRがその人に細々と質問をせずとも済ませられる用事だった。これがあるから、その人から、手土産は気にしないように、と言われた時も、遠慮のない素直な要望と聞こえ、また要望を叶えれば逐一その人から感謝をされるので、一点の曇りもなく引き受けられた。
ある日の書き置きはこうである。《ラムケーキのために。砂糖と卵を買ってきてください》。いつもの通りに材料を買ってくることまではRに一任された。帰るとその人は卓上に道具を並べていた。調理となると、その人は必ず部屋から出てくる。ラムケーキではなくとも必要な道具はあらかじめ並べられ、片づけもその人が行う。まるでRが戸棚を勝手に開けることを避けるかのような分業の仕方だった。
見られて困るものが戸棚に隠されているのかとRはその人が寝ているうちに戸棚を開けてみたことがある。戸棚の中には何かがあるどころか何もなかった。Rはその隣の棚も開けてみた。何もない。ほとんどの棚が同様であった。仕舞われていたのは、せいぜい空き瓶と小麦粉の袋で、手に取る価値もない。今まで使ったことのある調理器具さえ、そこにはなかった。
Rは詮索を止めた。たとえばひとつの棚でも乱雑に物が詰め込まれていれば、暮らしの最もらしさを嗅げる気がしたが、当てが外れた。後に起きてきたその人に、Rは居心地の悪さを覚えた。以来、Rは自分の道徳に従って、他人の私生活を暴くような真似は控えていた。
すると自然と興味が薄れ、その人との関係は何度顔を合わせても変わらなかった。だからRが自分の私生活をその人にわざわざ教えることもなかった。その人は家に居、Rは要望を叶え、みだりに私生活を訊かない。Rにとっては、その人に会うことは自分の身近に絵描きがいないので、筆を運ぶ姿を眺めるのが面白い。完成したらしい絵が、部屋に増えたり減ったりするのも、不思議な光景に見える。Rが作品を眺めることを、その人は厭わない。その絵はソファから見てくださいと言う。ひっくり返してもかまわないと言う。大きな作品を捨てたと事も無げに言う。Rが眺めている横で、適当に本を読んだり、水を飲んだりしている。
笑い合うなら親しい友人が別にいる。だが笑わずに済ませて、互いの仲が良くも悪くもならず、契約を結ぶでもなしに成立している相手はなかなかいない。
庭園はいったい何時間をかけて歩くのか、出掛けて面白いのか、Rは量りかねた。余計なものにかまえるだけのゆとりが、Rに返事を躊躇わせていた。
その人はRが返事に迷う間、絵筆を水の入ったバケツに入れて洗っていた。庭園へと誘ったことを忘れて作業に没頭しているように見える。水をかき回し、布巾で筆の先をぬぐう。また水の中に同じ筆を入れる。布巾に毛先を押しつけて水気を切る──絵を描かぬRにも、長く置きすぎると思えるくらいには、しつこく。
「いつ行きましょうか」
とRは言った。
「来週の末はどうですか。夕方から」
その人はようやくパレットへ筆をのばした。
翌週末、日暮れにRはその人の家を訪ねた。呼び鈴を鳴らさずに玄関を開けようと把手に手をかけ、しかし考え直して呼び鈴を鳴らした。
その人はすぐに出てきた。レンズに色のついた眼鏡をかけている。前髪が垂れ、顔に影を落としていた。まぶしげに目を細めている。煉瓦色のセーターと黒いトラウザーはRの記憶に残らぬほど見慣れた組み合わせだった。
「あと十八分待ってください」
とその人はRを玄関に招き入れた。
Rは玄関に置かれた椅子に座った。出会い頭に僅かに身構えた自分を落ち着かせようと、下腹の上で手を重ねた。のけぞって壁に背をあずける。ぎこちない心地がするのは、なじみのないことをしようとしているからだと断じた。Rはいつもと変わらない服装でやってきた。ただし靴だけは少し上等な一足を履いてきた。
身支度のためか、Rを玄関に入れたその人は部屋の中に戻っていった。Rは手持無沙汰であるなりに、壁をぼんやりと眺めた。粒子が見えるようなざらついた壁紙である。その粒の迷路を無頓着に縦断すると、一足、黒い革のローファーが目にとまった。よく磨かれてはいるが、艶は控えめで、シボがくっきり刻まれている。Rは足下を見比べ、自分の靴が見劣りしないことを確かめた。
しばらくして
「そろそろ行きましょうか」
とその人が現れた。前髪をかきあげて額を出していた。きっちりと櫛を通して整えられている。日除けのなくなった目が明るかった。
二人は玄関を出た。その人が鍵を掛けるのをRは見た。
外は涼しげな風が吹いていた。不躾な辻風とは違う。真冬の威嚇するような風とも違う。意思のない風である。服をいたずらに遊ばせず、通りすがりにただ気付いた者だけに、すっと息を吸わせる。自分の体温が夜風にはあたたかいことを密かに知らしめてくる。
「いい夜です」
とその人は空を見上げて言った。綿を千切って広げたような雲が空を覆っている。星は隠れており、月の形も朧である。天と地の間は透いて、薄曇りの空が細やかに見える。だがRは月が大きく丸く見えれば見えるほど良いと思っていたので、同意しかねた。そこで
「こんな時間でも開園しているなんて、珍しい庭園ですね」
と話題を転じた。
「今だけです。薔薇と紅葉が最も美しい時期ですから」
とその人は言った。Rが知っているのは桜と藤、紅葉の咲き頃くらいだった。いつも道の脇や川辺に咲いているのを横目に見るくらいで、花が咲くことは時の流れを知らせる合図でしかなかった。
薔薇は香りが……とRは言いかけて先が続かず、気を取られたかのように枝道を見た。間を持たせられず、
「毎年見に行っているのですか」
とRは訊いた。
「気が向いた時には」
「昨年は?」
「行きましたよ。一人で」
「庭巡りが趣味ですか」
「うん、まあそういうところもあるかもしれません」
そろそろ角を曲がるだろうと予感していても、曲がらない。Rは庭園への道のりを頭に入れてきたつもりで、ほとんど忘れ、おおよその方角だけ見当をつけていた。今度こそ、あの突き当たりの階段を上がるだろうと見据えていると、その人の足は横へ向きかけていたが、階段へとつま先が向いた。人とすれ違うために二人は前後に並び、しばらく会話が途切れた。
「よく行くところはありますか」
とその人は階段を上りきってからRに訊いてきた。
「どうでしょう。ここだというところはありません。家と職場の往復ばかりです」
Rは日頃の記憶をたぐった。
「たまに最寄り駅の手前で降りて、普段は覗かないような輸入食品の店に行くことがあります」
「へえ、輸入品」
「はい。オイルサーディンの瓶を気に入っておりまして。大体の店では缶詰めで売られていますが、その店では大きな瓶で売られています」
「おいしいですか」
「今度買ってきましょうか」
「寄ることがあれば」
Rは話の流れで自ら申し出たことをやや面倒に思った。後先を考えずについ張り切ってしまう性質は生来のものだった。たとえ相手の願いが控えめでも、頼られると弱い。必ず買っておかなければ、とRは覚えた。
二人は黙々と歩いた。
「そこの道を右に」
とその人が言った。
庭園の門が見えた。数名の来園者が門に入っていった。Rは自分の右手にずっと見えていた塀が庭園の囲いであったことを知った。
その人はRより先に門を通り
「入園券を二枚ください」
と蝦蟇口の財布を開いた。Rが財布を出そうとすると、いいから、と手で抑えるふりをする。その人の手の中にあった蝦蟇口はころりと小さかった。軽い散歩ですから、ちょっとお供をして参りました、というような小ささに、Rの遠慮が引っ込んだ。
石畳の道を進むと、薔薇園が見えてきた。低木の根元に明かりが置かれ、薔薇を照らしている。狭い道に見物人が並んで順繰りに見ている。
「賑わっていますね」
とRは言った。見物人の列は蛇行してゆったりと流れていたが、ほとんど数珠繋ぎであり、右や左に向きを変えようにも、立ち止まる者がいると道が詰まって、どうして進めないのだろうと首を伸ばす者がいる。
「少し空くまで、他を見て回りましょう」
その人は明かりの少ない道へ歩き出した。
石畳の道が砂利になり、堅い土に変わった。鬱蒼とした木立が頭上に覆いかぶさる。敷板がところどころにある。Rは暗がりに目が慣れず、足下を気にしてばかりいた。椎の実が落ちている。
「子供の頃に」
とRはその人に話しかけた。その人はRよりも一歩先を悠々と歩いていたが、Rの声で歩調をゆるめた。
「こういった木の実を集めることが楽しいあまり、やたらと拾ったことがありまして」
その人は敷板をしっかりと踏みわけ、樹上を見上げた。夜目がきくのだなとRは思った。自分も慣れてきて、足下以外にも目を向けられるようになってきた。
「竹籠に蓄えて、床の間に飾っていたのですが」
「うん」
「ある日、障子を開けたら、勝手に畳の上に散らばっていました」
「え?」
「どんぐり虫が」
「ああ……」
「あれには参りました」
「どうしましたか、虫のほうは」
「塵取りで集めて軒下に。実も慌ててばらまきました」
「なかなか怖い話です」
「怖い話ですよ。部屋に虫を湧かせたら親にも叱られます」
「飾るまでは許されても」
「ええ」
薔薇園はとうに見えなくなっていた。石段を二人は下った。靴が柔らかな土を踏んだ。湿っぽい風が鼻に届いた。木立を抜けた先に水の気配がある。
積まれた大きな岩が土をおしとどめていた。人々が踏み固めた地面が草と土に境界線を引いている。薔薇園から流れてきたらしい人がちらほらと居た。花がきれいだっただの、種類が多くて勉強になっただの、夜の庭は幻想的だのという似たり寄ったりの歓談と二人はすれ違った。黙っていたのは若い恋人達で、男が女の肩を抱き、乱れてもいない女の髪を撫でていた。Rはできるだけ女の顔を見ないよう、目を紅葉や自分の先を歩くその人の踵に向けた。
足音が変わった。二人は飛び石を踏んで、池のほとりに出た。
暗い池だった。水面が緑色に沈み、のっぺりと広がっている。石橋が小島を挟んで池の対岸へと繋がっている。欄干のない、一人だけが通れる幅の橋である。池の中央には小振りな松の木が立つ離れ小島がある。池を周遊する人々が、水面に枝を伸ばした樹木の下で黒く塊になっていた。滝の音が聞こえる。Rは音の出所を探したが、今いる場所からは見つけられなかった。その人は水際まで寄り、後ろ手に腰を僅かに曲げて池を覗き込んだ。
「何かいますか」
とRは訊いた。妙に間が空いた。
「いいえ、この池には何もいません」
とその人は姿勢を変えずに言った。そして
「生きものがいると波紋ができますから」
と続けた。Rは池に近寄った。その人は水面を覗き込んだままで、Rに水際を譲る様子はない。その人が立っていたのは迫り出した岩の上だった。辺りはぬかるんだ土で、短い草が生えている。Rは背後に人の話し声を聞いた。老夫婦と思しき声だった。紳士が
「俺はあっちを回ってくる」
と言った。
「そう?」
「滑るぞ」
「大丈夫よ、これくらい」
Rは婦人に道を譲ろうと岩に足をかけた。
「あら、どうも……」
婦人はRに会釈をした。Rは婦人が通るまで、片膝を曲げて体を傾けていた。婦人は自分の足下を注意深く見ながら石橋を渡っていった。
「もう一組来ます。先に渡ってはどうですか」
とその人が言った。岩は成人が二人とも乗れるほど大きくなかった。その人はいつの間にかRに体の正面を向けており、Rとほとんどぶつかりかけていた。
「ああ、すみません。ではお先に」
とRは言い、石橋をさっさと渡った。
夜風が頬に冷たかった。生臭い水のにおいが混じっている。Rは橋を渡った先で、次にどこへ向かおうかと二手に分かれている道を迷った。片方は小さな山につづき、先がどこに繋がっているのか見えない。もう片方は池の縁を回るようである。この池が深いのか浅いのか、見た目からは判断できずにいた。風でさざ波がたっても、沈んだ色のまま光を映さない。藻らしき膜と、落ちた紅葉がのろく水際のくぼみに寄り集まる。月明かりも侘しい。開けた空に、庭園の外の中層集合住宅が見える。家々が見えても、庭園は鬱蒼と暗く、先を知らない林に入っていくことは少々躊躇われた。
Rは石橋を振り返った。その人はまだ岩の上に立っていた。見知らぬ人と、話をしているらしかった。その人の口元が笑った。Rは途端に滝を探す気になり、水の音の聞こえる方へと歩き出した。
滝はすぐに見つかった。石橋を迂回して通る道の半ばの、奥まった場所にあった。滝の手前に、竹を一本横に置いただけの柵が張られている。滝壷に叩きつけるように水が落ちていた。庭園の規模を基にすると瀑布である。流れ落ちた水は細い小川となって池に注がれている。Rは滝の縁に近寄り、滝口を見上げた。飛沫きが飛んでくる。靴が濡れたがかまわなかった。水のにおいは生臭いが、庭園を巡るのはよい趣味になりそうだとRは思った。ぼんやりと眺めるうち、滝口へ上る道をRは発見した。Rの足は勝手に階段へ向いた。木深く、ほとんど土に埋もれている階段は半端な高さで、足をひっかけないよう用心しなければならなかった。
滝口から池のほぼ全景を望めた。見渡す限りでは、人の影はもう消えたようである。こちらは薔薇園と比べて催しもなく夜は足場が悪い。となれば閑散とするのは当然に思われた。足下ではただ滝の打つ音がする。Rの呼吸は深く静かなものへと変わっていった。池は草木の狭間に沈潜している。膝丈ほどの草むらが滝の落ちはじめまで赴かないよう足止めとなっている。繁る木々の枝が風をやわらげる。
庭は大自然の縮図だった。山があり、滝が流れ、川を下り海が広がる。海原には島が浮いている。木々は霞である。Rは自分が歩いたことのある土地は、眼前の景色と似たように霞で囲われた限られた地だと思った。虫の声がRの感覚をますます狭めた。これが自分の世界の全てか、とRは針小棒大に考えた。
そこでふと、気が付いた。池の全景を望んでいるが、あの人が居ない。石橋はとっくに渡ったようである。池の外周に目を凝らすが、遠くにもそれらしい影は見えない。どこへ行ったのだろうと思った。こちらからは探さずに待たせてもよいだろうとも思った。先に石橋で待たせたのはあの人であったから、これでおあいこだと自分を説き伏せようとした。
しかし一度気付いてしまっては、気もそぞろで景色をたのしめない。どうしても姿を探している。庭園の門に戻ろうかと考える。探しつつ戻れば、その人は案外に平気な顔をして、自分を余所に薔薇を観ているかもしれない。ところへ、Rの目が滝の下の人影を捉えた。
Rは怯んだ。その人がこちらを見上げていた。表情こそ見えないが、自分の姿が向こうから見えていることは分かった。その人はRと同じように滝口へ続く階段を上ってきた。
その人はRのやや後ろで立ち止まった。Rは誰かが上ってきたことにさえ全く気付いていないかのように顔も体も動かさずにいた。景色はRの感覚器官から抜け落ちた。Rはきっと庭の宙空に視軸を穿った。
いくらか経った。最初こそRは背後からの視線を背に感じていたが、それも薄れてきていた。そこへ、溜息が聞こえた。
「何か見えますか」
とその人が言った。
Rは許されたと思った。
「何も。誰も見えません」
しまったと唇を結んだ。言い訳が過ぎた。
「だいぶ人が減りました。薔薇が見頃かもしれません」
とその人は言った。平坦な声だった。Rはその色が恐ろしかった。はらわたに針の先を差し向けられた心地がする。たった一本の銀の針である。刺すつもりはないのだと言わんばかりに在るが、その場で凝っと針を上向けている。やさしく触れれば傷にはならない。加減を誤れば皮を突く。Rは振り返った。その人は腕を胸の前で組み、鼻の下を押さえていた。控えめに膨らんだ頬と白い歯が見えた。口元が手に隠れる。手が下ろされた時、そこにはまだ微笑みの名残があった。
「意趣返しかと思いました」
と言ったその人の顔から名残が拭い去られた。
「違います」
「本当は」
「考えもしませんでした」
「腹を立てていませんか」
Rは呆けた。
「池でそっけなくしたので」
とその人は、顎をしゃくった。Rは自分が指されたと解した。
「腹は立ちません」
とRは突っぱねた。その人は
「それなら、謝らない」
と告げた。
「いい、でしょう」
Rはぎこちなく了承した。その人はRから見ても明らかに、不敵に笑った。
「参りましょうか」
とその人は左腕の袖をまくり、腕時計を確かめて言った。聞くが早いか、Rは率先して薔薇園へ向かった。
賑わいは落ち着いていた。薔薇を観賞している人々がいるものの、列を為すほどではない。暗かった庭から出てきたRは、薔薇を照らす明かりをやけに眩しく感じた。薔薇は、深紅、象牙、淡い珊瑚、花托に近い部分が黄色く花弁の先へ向かって緋の階調など、整頓された区画の内で各々が素直に咲いている。電球に照らされて、鋭い葉や棘が暗所に潜み、花弁が浮かぶようである。
Rはしげしげと手近な桃色の薔薇を眺めた。紅生姜をぎゅっとまとめたようだと思ったが、薔薇たちにふさわしくない形容だと思い、黙っていた。美しい形容を探したが、比肩する喩えはそう易々とは見つからなかった。自分の感性では埒が明かない。ただ美しいと言ったとして、自分が美に圧倒されたという事実は主張できても、何を以て美しかったかは伝えられない。感嘆は素朴すぎる気がしていた。適当な句が思いつかないならば、言わぬが花である。
Rは真横を見た。ずっと静かであるから、おそらくその人は真剣に観賞しているのだろうと思っていた。
その人は俯いて目を覆っていた。目頭を押さえている。指の先が白い。Rの眉間に力がこもった。
「どうしましたか」
とRは訊いた。その人は眼鏡を片手で外し、力なく指に引っかけた。
「大丈夫です。観ていてください。少し……目を、休ませてきます」
とその人は言い、確かな足取りで薔薇園から出て行った。Rは言われた通りに薔薇へと居直った。二つの気遣いを天秤にかけた。Rはその人を追って薔薇園を出た。
その人が四阿の長椅子に荒く座る姿をRは間を置かず目にした。まぶたを覆っていた手がこめかみにずり上がり、両手首で側頭部を挟むようにして蹲っている。左手に眼鏡が握りしめられていた。薔薇を観ているようにと言われた手前、何と声をかけたものかRは逡巡した。
「眼鏡を預かりましょうか」
Rはその人が握っている眼鏡の近くへ手を差し出した。その人は力をゆるめようとはしなかった。Rは引き下がり、対面の長椅子に腰掛けた。その人は
「すみません。本当に、いけないことです」
と言った。Rは返答に窮した。その人は忌々しげに
「夜なら大丈夫だろうと過信していました。照明を近くで見過ぎてしまったようです」
と静かに言った。
「気になさらず。仕方無いことです」
Rにはその人のつむじが見えていた。髪が乱れている。その人の側頭部を押さえる手はいよいよ強張り、指が鉤型に曲がって動かない。苦痛は本物のようであった。
光に対して過敏すぎやしないか、とRは小さな疑念を抱いた。
それでも半病人を前に、この人が苦痛に耐える時、会話で気を紛らわせたいと考える人かどうか、様子を窺った。用事があれば伝えてくる人のはずである。
間を置いて、その人は腕を下ろした。そして丸めていた背を伸ばした。
Rは
「ここに居るのも良いものです」
と言った。その人は膝の上で硬く拳を握った。
Rはその拳に長く目を留めることを危ぶみ、四阿の外へ顔を背けた。夜風がささやかに吹いていた。Rはさもその風に目を乾かされたかのように、ゆっくりとまばたきをした。その人は伸ばしていた背筋を再び丸めた。
何故、こうも気遣いというものは面倒で、しかし満たされるものだろうかとRは考えた。自分の親切には糖衣の下に命令があるような気がした。その人が気遣いを受け取り、従ったからこそ快く思った気がする。薔薇への興味は深まりそうになかった。だから今も、四阿で過ごそうが、どこに居ようが差異がない。
Rの視界の隅で、その人はまるで眠ったかのように動かずにいた。Rは動かないのならば注意は払わぬもの、と決め込んだ。挙動から調子を推し量ることを止めた。
樹木に囲まれれば、都会でも自分の周りだけは暗く感じられる。目が慣れても、見通せない木立がある。夜空は藍色で、見える星は少ない。天にはきちんと蓋がされているように感ずる。その人にかかれば、一等星の輝きも眩しく感じることがあるのだろうか、とRは想像した。では水面の反射は。洋酒の瓶のちらつきは。ガス焜炉の青い火や、部屋の豆電球は。不調の引き金に囲まれているように思う。とても暮らしてはゆけまい。
視界の端でゆうらりと、その人の頭が傾いだ。Rはついその動きを追った。その人の頭は体が倒れる寸前で静止した。そして慌てるでもなく、しずしずと元の位置へと戻っていった。……Rは、この人はこのようであるから、実のところたいして困っていないのかもしれない、とすっかり気が抜けた。
二人は四阿でくつろいだ。まもなく閉園である、と庭園の職員が知らせに来た。職員は薔薇園へと歩き去った。
Rがその人を見ると、まだ舟を漕いでいる。目玉は繊細でも神経は図太いなとRは思った。それがおかしくて、ひっそり笑った。
「閉園までに出なかったら、ここで一晩を明かせるものでしょうか」
とRは遠慮をせずにその人に話し掛けた。その人はのろのろと眼鏡を掛けた。
「ここで、ですか」
「まず追い出されるとは思いますが」
「できれば壁がほしいところです」
とその人は打って変わって、すっくと立った。引き締まった表情をしている。
「迷惑になる前に出なくてはいけませんね」
とその人は言った。
薔薇園の方は人の気配がいよいよ失せた。二人は門へと歩いた。自分たちが最後かと思っていたが、後ろにはまだ人が続いていた。