獣蠟
御仁はナイフが自分の手元にあるのに、人に「林檎を切って」と言う。そして林檎の切り口を、ああだこうだと品評する。人に任せて、切り口が気に入らなければ捨てればよいと考えている。人の労力を無下にするという選択肢をあらかじめ用意しており、実際に半分以上を無下にする。
御仁は「食べたいから」と嘘を言う。食べたいと言わないと人が切ってくれないのを分かっている。自分が「食べたい」と伝えたときに、人がどういう形で林檎を切るかで、その人の思いやりだとか合理性、器量をはかっている。
林檎を切るなら、御仁が自分でナイフを入れたほうが満足できる。食べたくない部分を確かめながら、食べたい大きさを決められる。誰かのためでも何でもないから、大きく乱切りにして齧るでもいい。けれども御仁はどうしても、ナイフを持ちたくない。人にナイフを握らせた横で、それを眺めながらこんな話をする。
──愛人に裏切られた男が、召使いを呼んでこれから自殺する旨を伝えたらしい。そのとき召使いに、死んだ後の望みを託したそうだ。死後に自分の脂肪で蠟燭をつくり、それに火をつけて愛人のもとに持ってゆくように。愛人には、最後の手紙を書いた。《この手紙を読むときに手元を照らす蠟燭は、みじめなわたしの死体の一部で出来ている。今こそ、長いことあなたのために燃えてきた、わたしの炎が本物であったと知るだろう》と──
蠟に色をいれましょうか、と聞き返されて、御仁はお前の好む色にしなさいと言った。甘ったれた人である。
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作中の逸話は、Forbes Winslow, The Anatomy of Suicide (London:
Henry Renshaw, 1840), Chapter XV, “Singular Cases of Suicide
所収の記述をもとに再構成した。