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 板チョコレートを二つに割ったとき、大きな破片を妹にあげた。妹はチョコレートを私よりも早く食べきった。妹は、私の手元に残っているチョコレートを見た。私は妹に残りをあげた。
「お姉ちゃん大好き」
 と妹はチョコレートを手に笑った。

 妹が折り紙をしていた。私も折りたくなって、一枚くださいなと言った。妹は「だめ」と言った。私は、それなら別のことをするから机の半分の場所をあけてと言った。妹は
「いや」
 と言った。私は椅子に座った。妹は顔を歪めた。私を意地悪だと言ってぐずった。私は妹を叩いた。

 公園を通りがかったら、見知らぬ子たちと妹がいた。二つ結びをしている女子と、ぼさぼさの髪の男子だった。
 女子は手のひらを妹に出した。妹はポシェットを不器用にいじった。
 私はまっすぐそこに向かい、妹の横に立って女子を見上げた。男子は私よりも背が低かった。
 何をしているの、と私は言った。
 女子は、蒙古襞に黒目を寄せて鼻をつんと上に向けた。
 私はその場にしゃがみ、砂をつかんで女子の顔にかけた。横でうっすら笑っていた男子を追いかけて突き倒し、半ズボンを引っ張り下ろした。女子が私の頭を殴った。私は女子のお下げ髪を掴み、玉のついたゴムの髪留めを奪って遠くへ投げた。頭を五回、拳で殴った。

 翌日、私は大人に叱られた。私は大人に髪を引っ張られて、必ず謝ってくるようにと言われた。
 妹は部屋の隅で静かにしていた。
 私は妹が数ヶ月前から貯金箱を空にし、ビーズの指輪を次々になくしていることを知っていた。
 馬鹿な妹だ。それだから、大人も可愛がる。
 ベランダから家々の窓を眺めた。黄色い明かりが点く家と、消える家があった。窓ガラス越しに妹が大声で泣く声が聞こえた。大人は私を部屋に入れた。私と妹は子供部屋で二人きりになった。妹は泣きやんだ。妹は
「お姉ちゃん」
 とだけ言った。私は毛布にくるまっていた。

 学校の廊下で、公園にいた男子とすれ違った気がした。あの女子とは出くわさなかった。
 道具箱の中を整頓した。放課後に下駄箱を開けたら、靴が土まみれだった。靴からこぼれていた土も掻き出した。すのこに土が散らばった。
 そのままにして私は帰った。

 家の門の前で、玄関の鍵を取ろうとカラの植木鉢を引っ繰り返した。鍵はなかった。チャイムを鳴らすと、妹が鍵を開けてくれた。
 洗濯物を二人で取り込んで畳んだ。その後に私はビーズの指輪を作った。妹も作りたがった。私は図面を渡した。妹は、できないと言った。私は大粒のビーズを妹に選ばせた。細いゴム紐に通して結ばせた。妹は指輪の他に腕輪、ネックレス、と次々に作った。自分の作品をじゃらじゃらと着飾った。それでも私が作った指輪をちらちらと見た。私が図面を見ながらテグスを通す間、妹はさらにたくさんの大粒ビーズを使って、アクセサリーを黙々と作った。
「指をかして」
 と私は言った。妹は人差し指を出した。
「その指でいいの?」
 妹は手を開いて、中指だけを他の指よりもくっきりと伸ばした。妹の指に巻きつけて、サイズを確かめた。ビーズを一列分、抜いた。テグスの始末をつけた。
「欲しい?」
 と私は手のひらに指輪を載せて、妹に聞いた。
「欲しい」
 私は妹に指輪を渡した。
 そこへ大人が帰ってきた。
「おかえりなさい」
 と妹が言った。大人は机の上が散らかっていることに腹を立てた。洗濯物の畳み方が雑だと言った。私と妹はビーズを片づけた。妹は洗濯物を畳み直そうとした。私は横から、積み上がっているそれらをまとめて抱えて、各々のクローゼットに仕舞った。
 夕飯はミートソーススパゲティだった。妹は熱心に大人に話しかけていた。大人は眉間に皺を寄せながら微笑んでいた。
 大人は、私が例の子らに謝ったかどうか、聞いてこない。だから私も報告しない。

 担任の先生はいつも笑顔の女の人だった。頬が丸っこく盛り上がったおばさんだった。自分の似顔絵のスタンプを持っていて、テストの答案に必ず押した。顔の横に必ず一言を書いた。先生のあだ名はミカちゃんだった。
 先生はみんなと交換日記をしたいと言った。小さなノートが配られた。
 私は交換日記に鳩の絵を描いた。
 翌日、先生はいつものスタンプと《すてきな絵! とってもよく描けています。特に羽が先生は好きです》と書いて日記を返してきた。
 私は兎やカタツムリ、金魚などの絵をノートの一面を使って描いて、交換日記を渡す日を少しずつ延ばした。先生から催促はなかった。

 交換日記を書いたかどうか、同級生の女子が聞いてきた。以前に、書かないと言ったらその子は長い話をしてきたので、今度は書いたと言った。何でと女子は言った。その子はしょっちゅう私を追いかけてくる子だった。私は追いかけられなくなった。かわりに、私が自分の席で本を読んでいると、机にぶつかってくるようになった。私は別棟の階段裏で本を読むことにした。

 階段裏にしょっちゅう行った。放課後にも時々、階段裏で本を読んだ。
 図書室は同じ棟の二階にある。図書委員がカウンターにいない場合は、自分で引き出しを開けて、貸し出しカードにスタンプを捺し、記名をする。図書委員は日によって担当する生徒が替わる。日付を守って返しさえすれば、誰が貸し出し手続きをしようとも気付かれない。
 私は一冊、本を借りた。階段を下りて、誰にも見られないように階段裏へ行った。暗かったので、一度廊下まで戻り、電気のスイッチを上げた。もとからあまり明るくない場所だった。日暮れに電気を点けても、淡い電気しか点かなかった。
 私は防災頭巾を座布団にして、足を上着の中に曲げて入れた。襟を立てて首を縮こめた。袖を伸ばし、指先だけを出して本を読み始めた。
 たまに階段を誰かが通った。足音がすると私はページをめくらずに息を潜めた。
 本を読み進めているうちに、色々な音が気にならなくなった。
「何をしているんだ」
 と頭上から男の人の声が降ってきた。私は顔を上げた。隣のクラスの担任教師だった。
「どうしてまだ学校に残っている」
 私は黙っていた。
「他の生徒はもうみんな帰ったぞ」
「本を読みたかったんです」
「今日はすぐ帰るようにと先生から言われただろう。約束を破ったら駄目じゃないか」
 私は本を閉じた。
「ごめんなさい。すぐ帰ります」
 私は先生の横をすり抜けた。
「気をつけて帰りなさい」
 と背後から先生の声が追ってきた。
 私は振り向き、後ろに歩きながら軽く腰を曲げてお辞儀をした。目は床だけを見ていた。
 足早に昇降口へ向かった。
 先生の言う通り、学校は校庭にすら人影がなかった。いつもは全て開けられている校門が閉まっている。私は校舎を振り返った。職員室だけがこうこうと明るかった。防災頭巾を腹に抱え、やや前かがみに、家の玄関までずっと同じ体勢のまま歩いた。

 帰り道の途中に、一人で電柱に向かって喋っている男の人がいた。その男の人がいたのは私が曲がりたい道の角だった。私は歩く速さを変えずに横を過ぎた。
 家のチャイムを鳴らしても、誰も出てこなかった。今日は植木鉢の下に鍵があった。玄関を開けて家に入った。
 冷蔵庫のホワイトボードに妹の字で《ももかちゃんのオウチいってくる》と書かれていた。私は荷物を子供部屋に置いた。手を洗おうと洗面所に立ち、玄関の鍵を掛け忘れたことを思い出して、玄関に戻り、内鍵をひねった。家に誰もいないので、居間で宿題を広げることにした。
 筆箱を机に出した。鉛筆削りを子供部屋から持ってきた。学校で使って先が丸まりきった一本を削ろうと穴に刺したときだった。
 玄関ががちゃがちゃと大きな音を立てた。
 誰かが帰ってきたと思った。たぶん妹だろうと思った。ドアノブを回して何度も引っ張るような音だった。
 私は玄関を確かめに行った。背伸びをして覗き穴を覗いた。背中が見えた。曲がり角に立っていた男の人だった。背中は遠ざかっていった。
 私は机に戻った。鉛筆削りに手をかけた。しっかりとハンドルを握っていた。私の息よりも壁の時計の針の方が大きな音をしていた。
 家の外から《赤とんぼ》のメロディが聞こえた。五時のお知らせだった。
 遊びに出掛けている妹を思い出した。私も妹も門限は五時だ。
 鉛筆削りから手を放し、窓から外を見た。曲がり角が丁度見える。道を右から左へ、窓から見える端から端を見た。男はいなかった。
 とそこへ、玄関チャイムが鳴った。私は音を立てずに玄関に立ち、覗き穴を覗いた。
 妹だった。私は鍵を開けた。
「ただいま」
「おかえり」
 妹は息を切らしていた。
「走った。疲れた」
 と妹は靴を脱いでふらふらと椅子に座った。私は鍵をしっかり閉めた。
「手、洗いなよ」
 と私は言った。妹は、分かってるもんというような声を出した。椅子の上で膝を抱えている。私は冷凍庫を覗いた。
「アイスある」
 と私は言った。
「食べる!」
 と妹は洗面所へ走った。
「何があるの?」
 と妹の声が飛んでくる。私は冷凍庫を再び開けて確かめ、
「バニラとイチゴ」
 と言った。
「イチゴがいい」
 妹は手に水滴がついたまま小走りで戻ってきた。私は姫スプーンと一緒にアイスクリームを机に並べた。自分の分の、チョコレートアイスクリームも机に置いた。私は
「帰ってくる時に、変な人がいなかった?」
 と聞いた。
「いないよ。なんで?」
 妹はアイスクリームにスプーンを突き立てた。スプーンを握り込んで、こつこつと叩いている。私はカップを両手で包んだ。妹もカップを両手で包んだが、すぐにまたスプーンをアイスクリームに突き立てた。
「曲がり角のところで一人で喋っている人がいたから……」
「ふうん」
 かじかんだ手を私は太ももの下に潜らせた。妹はテレビの電源を入れた。私たちはアニメを見た。
 アイスクリームを食べきって、私は洗濯物をクローゼットへ片づけた。妹はテレビをつけたまま、宿題を机に広げた。広げただけで、画面を凝っと見続けていた。
 玄関のドアノブがガチャガチャと鳴った。
 妹は素早くテレビを消し、鉛筆を握った。私は身構えた。
「ごめんね、買いものしてたら、遅くなっちゃった。すぐ夕飯の支度をするね。あ、洗濯物を片づけてくれたの? ありがとう。二人とも偉いね」
 妹が
「お母さん、お姉ちゃんが道に変な人がいたって」
 と言った。
「変な人? どんな?」
「ずっと喋っているんだって。家の角のところ」
 大人は、ああ、と声を出した。
「あの子ね。ピンク色の家の子。高校生くらいだったかしら。ご近所さんなのよね」
 それから大人は台所に立った。

 食器を流し台に下げた時、もう一人の大人が帰ってきた。大人たちは、例の子のことを話し始めた。
「医者の家だろ?」
「らしいわ。一人で歩いているみたい」
「それで」
「子供たちが怖がっているの。何かしたほうがいいんじゃないかって思うのだけれど」
「何かあったわけじゃないのに?」
「あってからじゃ、遅いでしょう」
「そうは言ってもな。その子だって子供じゃないか」
「二十歳はいってないわね」
「直接言うわけにもいかないだろう。だいたい何て言うつもりなんだ」
「それが思いつかないから困ってるんじゃない」
「相手方の家にだって悪いよ。俺はちょっとお前がおかしいと思う」
「おかしくないわ。親として当然の心配でしょう。お父さんは心配じゃないっていうの」
「どうしてそうなるんだ」
「だってそうじゃない!」
 大人は机を叩いた。
「叩くなよ」
「そうやっていつもいつも問題から逃げて、ちっとも一緒に考えたり、何もしてくれない。会社に行くだけなら誰にだって出来るでしょう。もっと親として子供のことを考えてちょうだい」
「俺だって考えているよ」
「じゃあどうすればいいか、案を出して」
 大人は溜息を吐いた。
 私と妹は子供部屋に入った。妹は自分の学習机のひきだしからゲーム機を出して遊び始めた。私は先生との交換日記を広げた。本棚から図鑑を持ってきて、熊の絵を描き始めた。鼻面と両目を最初に描いた。
 鉛筆で黒々と塗りつぶしている時だった。
「うるさい! 俺だって仕事で疲れているんだ。ちょっとは休ませろ!」
 と大人の怒鳴り声が聞こえた。
「あたしだってパートで疲れてる。家事だってしてる。疲れているのはあなただけじゃないんだから。違う?」
「お前は俺の言うことに何もかも納得しないだろ! 自分の好きにしろ。どうせ何を言っても聞く耳を持たねえんだから」
「家族のことを考えてくれないからでしょう」
「ああ、ああ、考えたくもねえよ」
 熊の鼻と目は黒鉛で粉っぽくなっていた。
 妹はゲーム機を握ったまま動かずにいる。指が止まっていた。
 椅子を引く音が聞こえた。
「どうせ俺が悪者だよ。お前はいつも正しいもんな」
 私はダイニングへ飛び出た。大人たちは立って向かい合っていた。子供部屋から出てきた私を見た。
「やめて。話せば分かるよ。どっちも悪くない」
 と私は言った。
「ほら見なさい。子供にまで気を遣わせて」
 大人は互いを睨んだ。私は椅子の上に立った。
「道にいた人は全然気にしてないから平気。大丈夫だから」
「それは子供が決めることじゃない。親に任せなさい。大人が考えるから」
「でも」
「大人の話に首を突っ込むんじゃない」
 間髪を入れずに、もう片方の大人が
「ろくに考えようともしなかったくせに何が大人よ」
 と言った。舌打ちが聞こえた。片方はちょっとの間黙り、風呂に入ると言ってダイニングから出て行った。残った片方は皿を大きな音をたてて重ね始めた。
 私は子供部屋に戻った。扉を閉めると、妹が
「放っておけばいいのに」
 と言った。鼻声で、目の回りが赤かった。私は
「だってうるさいじゃん。いつまでも」
 と部屋の外に聞こえないように声を低めて言い、再び熊を描き始めた。
 妹は何度も鼻をかんだ。
 大人が風呂に入れと言うので、私は妹の分も返事をした。

 ピンクの壁の家を探した。通学路には見つからなかった。だから学校の帰り道で、普段は曲がらない道を曲がった。毎日、通る道を変えた。
 ピンクの壁の家は三角公園の近くにあった。三角公園にはベンチと砂場がある。小さな公園だった。
 ピンクの壁の家は大きな一軒家だった。白い門があって、屋根付きの庭に白い車が駐まっていた。
 私は家を見上げた。カーテンも白かった。陶器の人形らしき置物の背中が見えた。私は家の前を通りすぎた。道を左に曲がると、またすぐ左に曲がるようになっていて、三角公園の通りに繋がっていた。私はいつもの通学路に戻った。

 男の人は、いる日といない日があった。いる日は、いつもの電柱に話しかけていた。私は道の反対側の端を歩いて横を通った。私が家に帰って、窓から外を見ると、男の人はいなくなっていた。
 ある日に、いつもの電柱じゃないところに男の人がいた。
 男の人は道を歩いていた。私は男の人を離れた場所から見ていた。電柱三本分くらいの距離があった。
 男の人が道を曲がった。私はあとをつけた。
 男の人は三角公園の中を通って、ピンクの壁の家の路地に入っていった。私は三角公園の中には入らなかった。
 男の人はピンクの壁の家で立ち止まった。白い門を開け、敷地に入っていった。玄関チャイムを押したようだった。
 家の中からおばさんが出てきた。そのとき私は、電柱一本分の距離まで家に近付いていた。
 おばさんは、おかえりなさいと高い声で言った。
 男の人は、ただいまと大声で言った。
 おばさんは男の人を招き入れた。今日は……と何かを言った。続きが聞こえる前に玄関が閉まった。
 私はのろのろと歩いて家の前を過ぎた。いつも通りに、自分の家のチャイムを鳴らして、植木鉢の下から鍵を取って、自分で鍵を開けて入った。

 視聴覚室で授業があった。戦争のビデオを見た。感想を書いた。書くのが遅くなって、先生とクラスメイトの男の子と、私の三人が視聴覚室に残っていた。
「あの子たち、すごくかわいそう」
 と言う男の子の声が聞こえた。私は感想欄を、あともう一行分埋めようと文章を考えていた。
「どうしてあんなに辛い思いをしなくちゃいけなかったの」
 と男の子は涙っぽい声で続けた。
「悲しいことよね」
 と先生は言った。
「だって、かわいそうだよ、あんなの……皆、かわいそう」
 と男の子は繰り返した。
「戦争はなかったことにはできないけれど、その気持ちはとても大事なものよ」
 と先生は言った。私がちらりと二人の様子を見たとき、男の子は袖で顔をぬぐっていた。
 映像の子供は誰も泣いていなかった。
 先生は代わりに泣いてあげるのはやさしいことだ、と男の子に声をかけていた。
 私は感想文の最後に、かわいそうだと思いました、と書いた。私は二人の横から紙を提出した。
 二人の会話が止まった。私は男の子に
「ティッシュいる?」
 と聞いた。男の子は口を曲げた。私は
「ちょっとしかないけど」
 と言ってポケットからミニティッシュを男の子に差し出した。
 男の子はありがとうと言った。
「残ったから返す」
 一枚だけ残ったティッシュを男の子は私に戻した。
 私はミニティッシュをポケットに押し込んだ。
 先生が視聴覚室の電気を消した。
 男の子は私より先に廊下を駆け足で帰った。
 私が教室に着いたとき、全員分の給食が机に並んでいた。当番表を見たら、自分の班が担当だった。食後に私は配膳台を給食室へすすんでもっていった。
 休み時間の教室に私は戻った。
 自分の席に座って、本を開いた。
 窓辺に生きもの係が寄っていって、亀に餌をあげはじめた。
 亀の水槽の横には、もっと大きな水槽があった。ゲンコツくらいの大きさのオタマジャクシが一匹と、練り消しみたいなオタマジャクシがうじゃうじゃと泳いでいた。メダカと金魚の水槽もある。
 生きもの係は亀にだけ餌をあげて、どこかへ行ってしまった。
 私は開いた本を伏せて、水槽のところに行った。
 メダカと金魚に餌をあげた。オタマジャクシの水槽にも、メダカの餌を振った。
 オタマジャクシはあの男の子と、何人かがバケツいっぱいに捕まえてきたものだった。
 教室を男の先生が覗いて、外に遊びに行きなさい、と号令をかけた。
 数人が返事をして、皆が教室を出ていった。
 先生も顔を引っ込めてどこかへ行った。
 私は自分の席に座り直した。
 風でカーテンがひるがえった。校庭から皆の声が聞こえていた。
 私は本に視線を落とした。固い表紙を両開きにして、本の中央をぐっと押さえた。本は手を離しても開いたままになった。ページの端は浮いていた。筆箱から消しゴムをだして、浮いたページの上にのせた。
 右上から文章を読んだ。私は点と丸を目で追った。ページの左下についた。消しゴムを置き直した。文字を読んだ。
 そうしているうちに、皆が教室に戻ってきた。私は本を閉じて、机にうつぶせになった。

 学校から帰ったら、妹が玄関から出てきた。
「あ」
 と妹は声をあげて家の中を振り返り
「お母さん、お姉ちゃんが帰ってきたよ」
 と言った。
 妹はそのまま外に出ていった。ポシェットがぽんぽんと跳ねていた。
 私は玄関をくぐって、ただいま、と言った。途端に大人が
「あんたねえ」
 と荒げた。玄関にゴミ袋が置かれていた。
「今日、ゴミ捨てをやらなかったでしょう。プラスチックのゴミの曜日は、あんたが担当だって決めたよね。妹はちゃんとゴミ捨て当番を守るのに、どうして出来ないの。何とか言ったらどうなの」
 私は玄関に立ったまま、
「忘れてた」
 と言った。
「じゃあどうするの」
「捨ててくる」
 私はゴミ袋のくちを縛った。
「だめに決まっているでしょう。来週までゴミは出せません。使うから縛らないで」
「ごめんなさい」
 と私は言った。ゴミ袋のくちをほどいた。
 大人は、同じことを何度言わせたら気が済むのだか、と言った。約束を守らない子だと言った。口ばかりで、父親にそっくりだと言った。
 私は黙っていた。すると大人は、家族に協力もしないで、不満なら出て行きなさい、と言った。
 私は玄関のドアノブに手をかけた。背後では、台所で大量の水を流す音が聞こえた。包丁を手荒く使う音も聞こえた。
 私は静かに玄関を開けて外へ出た。ドアノブを捻ったまま扉を閉め、ゆっくりとひねりを戻した。

 私は商店街へ向かった。人がたくさんいた。
 自転車のカゴにはだいたい白い買い物袋がいれられていた。
 肉屋に人が並んでいた。メンチカツのパックが店先に積まれていた。
 魚屋にも人が並んでいた。
 豆腐屋には並んでいなかった。
 自転車屋でタイヤに空気をいれている人がいた。私よりも年上の子で、その子に似た顔の男の人がタイヤを触り、もう一度、まだもう一回、と言っていた。
 八百屋にはお店の人と話し込んでいるおばさんがいた。おばさんの後ろで、キャベツを持って立っているおばさんがいた。八百屋さんが手を差し出して、キャベツのおばさんは人の後ろからお会計を済ませていた。
 制服姿の女の子たちが、道の端でメロンパンをかじっていた。
 本屋の店先で、おじさんが立ち読みをしている。柴犬が自転車に繋がれていた。
 ラーメン屋から帽子を被った男の人が出てきて、バイクに乗った。すぐに裏通りへ曲がっていった。
 短いスカートの女の人が、男の人と手を繋いで歩いている。女の人はしきりにスカートの裾を下に引っ張っていた。
 酒屋の横にあるタバコ屋の前で、スーツを着たおじさんが三人で頷きあっていた。
 赤ちゃんを背負った女の人たちが、曲がり角で片手を背中に添えながら、体を揺すっていた。その近くには小さい子たちがいた。小さい子たちは道の端の地面にしゃがんで、短い雑草を千切っていた。女の人は、二度、三度と小さい子を見た。指先で肩をつついて、手を繋いだ。
 私は地面を見た。
 人の足が小石をたまに蹴った。
 灰色の地面がきらきらと光っていた。私はさっとしゃがんで地面を指で撫でた。指の腹はきらきらしなかった。
 商店街を抜けて、知らない道に出た。
 横断歩道を渡った。
 私は歩き続けた。
 広そうな公園を見つけた。木がたくさんあった。
 私はベンチにランドセルを下ろした。公衆トイレで用を済ませた。
 ランドセルをベンチに置いたまま、公園を奥へ奥へと歩いた。
 色んな犬が散歩をしていた。走っている人もいた。つぶれたギンナンの実がくさかった。
 小川を見つけた。大きな岩の裏から水が流れていた。私は岩陰に腰を下ろした。
 岩を跳ねて来る足音が聞こえた。
「うわ」
 と制服姿の女の人が私を見つけて声をあげた。女の人は岩をぐるりと一周して去っていった。私はそこに座るのをやめた。
 公園を練り歩いた。低い木は葉っぱが枯れていた。遊具は中が湿っていた。
 どこにいても風が体に当たった。
 《赤とんぼ》が聞こえた。
 私はブランコに座った。《赤とんぼ》が鳴り終わると、空は急に暗くなっていった。
 街灯がついた。
 私はランドセルを置きっぱなしにしていたベンチに戻った。置いたそのままになっていた。
 私はランドセルを押して、ベンチの下に落とした。肩を丸めて、しばらく俯いていた。
 土埃のついたランドセルを私は背負った。
 地面だけを見つめて家に戻った。
 どこに行っていたのかと聞かれた。門限を過ぎていると言われた。

 先生から交換日記が返ってきた。私に返すとき、先生は
「絵を描くのが好きなのね? 今回もよく描けていましたよ」
 と言った。私は日記を受け取って
「好きです」
 とはにかんでみせた。
 その日の帰りに、私は交換日記をやぶの中に捨てた。
 疲れた、と口が動いた。
 死にたい、と思った。
 思った私より先に、妹が死んだ。
 老衰だった。