2022



01.19

 引越しをしようかと物件見学に行った。その物件は歪なドーナツ型の建物で、いわゆる穴の部分には低木や草が植わっている花壇があり、オートロックの玄関を入らないとそれを見れないのが秘密の花園のようで素敵だったが、湿って陰気な雰囲気が漂っていた。廊下の手すりに、やぶれかぶれの汚れきった傘が何十本もコレクションしてあった。ゴミ捨て場には、錆びた空き缶の横に生煮えの豚の皮のような乳灰色の何かがぐったり伸びていた。建物の角という角が暗い。日が当たっているはずの外廊下に明るさが全く感じられない。澱んでいた。
 引っ越しは諦めた。夕飯にたまごあんかけチャーハンを食べた。



01.13

 昼間の商店街を歩いていた。すると、正面方向から腰の曲がったおじいさんが神経質そうにひょこひょこ歩いてきた。何か口の中で唱えている。おじいさんは急に叫んだ。
「もーダメだ!!がまんできない!!漏レ──」
 私は元々歩くのが速いので、おじいさんが叫びだした頃にはすっかりすれ違い、声は後方へ遠ざかりつつあった。禁断の放出の予感。結末を知るのがおそろしく、復路に同じ道を歩けなかった。



01.23

 昨日、大きな鏡を三枚購入して、文机を囲うよう置いてみた。ものを食べたり、こうやって文字を書く間も、自分自身の姿と対峙している。見つめても面白くはない。険しい顔と目が合う。鏡の中の自分と目を合わせると、右横の鏡のさらに奥の鏡にいる自分からも視線が飛んでくる。
 三面鏡に映る世界のどこかには、悪魔がいるという噂を聞いたことがある。どこで耳にしたのかは覚えていない。覗き込んで、何枚も奥へ奥へと重なる鏡のうちに、ふと何かがよぎったような気配がする。気付かないふりをして、つい俯く。



01.30

 ティーポットを今月の中旬に買ってから毎日お茶を淹れている。熱い液体が喉を滑り胃に落ちてゆく感覚が癖になって、火傷になりかけながらもやめられない。飲み始めるタイミングを一歩間違えて、あまりの熱さに苦悶する。まぬけだ。



02.11

 油土を購入し、人形の製作を進めている。右足の膝からつま先までの型を大雑把に成型した。油土のかかとをにぎりながら形を整えていると、本物の足を手にとっているかのような重みと冷たさがあって気持ちよい。



02.14

 夢の中で私が住んでいる家は、だいたい駅から二十分以上離れたところにある。太い道路を渡って、線路の金網を左手に歩き、歩道橋を通り過ぎた後に鉄塔の見えるゆるい坂道を登り、地域一帯に家はあれども人が住まずというふうな場所だ。道のりはだいたい一緒だが、家の形はそのときによって異なる。十八階建団地の十五と半分階だったり、二階建てアパートの庭だけを借りていたりする。なぜそんな中途半端な借り方を、と思う。部屋も妙で、外廊下が部屋の中央を通っていたり、窓のない息苦しい部屋もある。肩幅より狭い共有階段が当てずっぽうに張り巡らされているせいで一階に辿り着けない人が飛び降りを決行したり、建物がおんぼろすぎて集合住宅なのに私しか住んでいなかったりする。
 どの部屋に住んでいても共通しているのは、うす暗い部屋で、誰かに居場所を知られたか、家賃を払えそうにないといった理由で家を引き払わなければと考えているということ。現実でそのような理由で引っ越しをせざるをえなくなったことは経験したことがない。しかし夢の中では毎回、夜逃げのような危機に見舞われている。



03.03

 神経質になっているときは、たとえ楽器がたった一台に削ぎ落とされていようとも騒々しく感じる。



03.15

 おそろしいほど気力がない。笑顔をつくっても、維持できず、すぐに表情が沈んでゆく。うまいこと繕おうと自身に鞭を打つ。元気だという姿を表現しつづけて、今のところうまくいっている。病的のかけらも感じさせていないはず。
 しかしそうやって奮いきった結果、残り滓の身としては、もはや知らない人とすれ違うのも嫌だ。そういう日もあると励ましながら逃げるように家に帰った。



03.20

 もろみ味噌をつけて食べるきゅうりを気に入って毎日食べている。



03.24

 夢の中に現れる私の家は、なぜいつも暗く、汚く、おんぼろで、他人に侵入されやすいのだろう。人が家にやってくるといっても、開放的で明るくて、春先のテラスのような、花の香りのする居心地がよく人が集まる場所ならば、寝起きに恐怖を感じたまま硬直することもないのにと思う。目覚めて真っ先に確認するのは、玄関の扉がしっかり閉じられているか、窓に人影がないか、洗面所に誰かが潜んでいないか、と確認してまわることだ。馬鹿馬鹿しいと頭ではわかっていても、やめることができない。
 鍵がしっかりかかっていることを確認した玄関で立ち尽くす。やっぱり馬鹿らしい、と寝起きのぼんやりした頭で思う。そして二度寝をするときは、もう脅かされないようにと願いながら目を閉じる。しかしその後もだいたいうなされる。



03.29

 ココアの粉末がなかなか牛乳に溶けなくて、執拗にスプーンをかきまわし、マグカップの内側で粉の塊を押し潰している。面倒になってきて、休憩がてら日誌を書いている。これ以上に書くことが見当たらない。



04.11

 ヌミノース(numinous)という言葉を知った。自我の力をはるかに超えた圧倒、抗い難い魅力とも表現され、聖なるものから合理的要素と道徳的要素を引いてあらわれる畏敬の感情を起こさせる・感情が生じるようなある体験のこと。ヌミノース……ヌミノース……神聖な面持ちで口の中で繰り返していると、やがてカピバラとヌーを合体させた巨大なマウスがたちあらわれ、横向きの顔でビタッと脳壁に張り付いた。ぬみまうす、ぬーまうす、ぬーみまうす、ぬ・みのす、みのたうろす。ヌー・マウス・ミノタウロス……。



04.25

 この頃はもう暑くなってきて、日差しも眩しく、汗ばむ陽気。また夏がくる、そう思うと顔を顰めずにはいられない。汗をかき体が冷える、すると体に肉がついていることが強調され、その肉とは脂肪のことだが、もったりとまとわりついてくるのが鬱陶しい。



05.23

 催眠音声の手を借りて意識の階段を下り胎児の夢を遡ったところ、私の過去世は首を括った人だった。部屋の隅、どこに縄を張ったのやら、うつむいて、床のメを視界に捉えていた。さして驚くこともなく、この過去世の光景に私は「やっぱりな」と頷いた。ずっとそんな気がしていたので、催眠誘導によって妄想を濃く描き出しただけかもしれない。それかもしや、体験した過去世は私の未来ではないか。そっくりな部屋を見つけたら、それは私の死期なのでは。こういった予感は当たる。近からず、遠からず。しかし、そんなことを言いながらも豊かに辛酸を舐め年月を重ねて、老衰してゆくような気もする。結局わからない。そのときがくるまでは。



05.27

 本を読んでいると、たまに自分が過去に考えていたことが書き表されていることがある。当時考えていたことが、はたして自分の内側から辿り着いたものだったのか、それとも読み漁った本の文章がそのままぶら下がっているのに気付いただけなのか、分からなくなる。とても悔しい。聞き齧った他人の言葉を、まるで自分のもののように無自覚に発することほどあつかましく、むなしいものはない。他人がそれをしているのは構わないけれど、自分がそれをしているとしたら、虫唾が走る。これだと至った魂が、他人の立てた標にまとわりつき、縋っていただけのものだと思いたくない。



06.09

 思考のまとまりのなさ。浅い部分しかすくえないことがずっと続いている。景色や言葉や耳に届く音を意識で追えても、全てが素通りしてゆく。どん詰まりがないとは楽でもあるのだろうが、軽薄さに虚しくなる。
 生きるだけなら単純に思える。これが幸せかもしれないとも思う。しかしこのまま穏やかであるならば、生きるも死ぬも変わらないではないか、と現状を維持するためには手放してはいけないであろう執着をじっと見つめている。抵抗を感じる。



06.21

 まるで夢であること。現実にいながら傍観しているという感覚を得ていると思っている私をさらに遠くから私が眺めているという不確かな所在。影はそこにいくつもある。いくつもあるから影がどれだかわからない。あの脚の影が私のつま先からのびているものだったか、それとものびてはおらず水たまりのように尻の下にあるのか。影をつくれるほど実体があったものか。会話をしたようなつもりになっている。自己開示をし、相手の心も聞いたと思い込んでいる。ひとりになり、気分の悪さというか、疲れを感じたとき、それは充分に人と対峙し、耳を傾けたというときだ。喋れば空虚、聞けば疲弊。どうもバランスがとれず、どちらか一方に傾き続けている。



07.01

 暑いと頭が働かなくて困る。ぼおっとするのは嫌いではない。自主的にぼおっとしたくてぼおっとしているのではなく、ぼおっとさせられるのが嫌だ。いつかぼおっとしたりしなかったりする自由を剥奪されたまま返してもらえなくなるのではないか。それに気付くときは、気付くことすらないのだろうが、恐ろしくも幸福かもしれない。かつての私など忘れているのだろうから。



07.09

 無性にケチャップ料理を口にしたいときがある。チューブまるごともいいけれど、合わせ技で。ケチャップを絡めている料理。ナポリタン、ハンバーガー、オムライス、サンドイッチ、スクランブルエッグ。したたるほどケチャップがかかっているのがいい。ナポリタンに関しては、芯まで染みていて、ところどころケチャップがパスタの間にだまになっているのがいい。酸味があって、耳の前の頬がきゅっと締まる。行儀が悪いけれど、喉に詰まらせかけるくらいの量を頬張って飲み込む苦しみが幸せ。小さく口を開けて食べるのも、食材を刻み、挟む、または刺す、一挙一動の丁寧さに浸ることができて美味しい。が、なりふり構わず勢いに任せて雑に食べるのも、胃にずしりと重いひと口が落ちるのを感じられて満たされる。満腹感はひとりでいると感じられる。誰かと食べていると自分の胃の具合にも料理にもイマイチ気を回せない。ひとりになって食べなおし、ようやく足りる。誰かと摂る食事は楽しく、食がすすむ。それなのに毎回、食欲の満たされなさが必ず残る。だから人と会うと私は普段の何倍も食べる。ずっと食べているね、と指摘されるくらいには。次々と手をのばして口にものを放りこんでいる。なぜか人といるとき、食べないと悪い気がする。食べないことに相手を付き合わせることが、居心地悪く感じてしまう。相手に気兼ねなく食べてほしいと思う。こんなことを私が願わずとも、相手だって自由に食べたり食べなかったりするものなのに、おかしい。



07.18

 人形製作をやっと進める。発砲スチロールの切り出し作業。スチロールカッターで切り抜くのはあまり面白みを感じない。ヤスリで型紙の形へと削り出してゆくのは、角が丸くなり、らしい姿に少しずつ近づく手応えが感じられていい。曲線を追うので気分がよい。集中していたので、発泡スチロールの粉末が山のように出ていることに後から気付いた。マスクを着けずに作業をしていたので、粉をかなり吸ったのではないかと思う。大丈夫なものか調べるのが面倒だ。知らないままでいいか。



07.25

 他人が見た昨晩の夢の話を聞くなら、分析でも挟んでやらねばやってられない。対面とは別に、語られる夢の話で、文章になった夢の話はエロスがどこかに挟まれる。挟まれるものは、最も単純な裸体の女に始まり、まぐわう人間やら淫行のメタファーのようなものが立ち現れる。そういうものを目にすると、またセックスの話か、と額に手を置いてしまう。いくら私たちが繁殖するからといって夢に見過ぎだ。これは夢を書き残す自分への文句である。で、面白味のない夢の話は、整然とした文章になると尚更醒める。本人にとってはスペクタクルだった夢の光景の流れが、言葉として理解するうちに堰き止められてしまうからだと思っている。形が与えられすぎてしまった結果のこと。
 では自分はどう書いてみようかと、あほに思われても数珠繋ぎを試みて様子を伺っているものの、この方法は一度流れたら止まりどころがなく、読み返しが大変で実用性に欠ける。
 私は夢に現実の表現にならえと言いきかせようとしている。



08.13

 台風のなか、外を歩いた。強風に煽られると息が詰まる。雨の日は外出を面倒がって家に閉じこもってばかりいたので忘れていたが、十三歳くらいまでは雨が好きで……というのは正確ではなく、雨の日に吹く強風が好きで、学校帰りにひとり上機嫌にばたばたと服が煽られるのを楽しみ歩いていた。吹き飛ばされそうな浮遊感が楽しかった。今や生半可な風では吹き飛ばされないくらい重たい体をもち、地に足をべったりつけている。いつまでも気持ちだけは飛ぼうとするもので、滑稽だ。



09.11

 一週間ほど前に京都に行ったのがまるで何週間も昔のことのように感じる。新宿を二十二時に出発した夜行バスは、早朝五時に京都駅に着いた。東京と同じ感覚で、始発の電車がとうにあるだろうと思いきや、改札すら開いていない。西と東では朝の始まる時間も違うらしい。東京は遅寝早起きだなあと思う。
 始発で訪れた伏見稲荷大社の麓にうろつく猫に構ってもらった。人懐っこく、擦り寄ってきて、しゃがめば腿に肉球をのせて首を伸ばしてくる。なんとなく、目元がお狐様に似ている気がした。



10.11

 しょぼくれた草むらの中からアスファルトの道脇、自宅の外階段にまで、たった三十分の散歩の間に大中小のカマキリに会った。全て死にかけていた。しゃんと立つカマキリは一匹もおらず、蹲り風に体を揺らされているか、腹を見せてうねうねともがいているかのどちらかだった。あるカマキリは、階段の踏み面にあおむけにひっくり返っていた。手のひらいっぱいに乗るくらいの大きさで、捩る腹がよく見えた。私はひいと息を呑んだ。眼下に急に現れたように見え、驚きすぎたので。それはそれは情けない声だった。踏まないようにしながら階段を上りきる。玄関に入ってから、私は逡巡した。わずかに備わっていたやさしさが、私の手に傘を持たせ、再び出会いの場に戻らせた。カマキリは変わらず、うぞうぞ足を天に向けてもがいていた。腰を捻ることのできない虫なのだろうか。詳しくないので分からない。ひっくり返ったままということはそういうことなんだろう。私のように階段を上ってくる人には気付かれるだろうが、下りてゆく人には知られず踏まれかねない。傘の先端を、さあ抱け、とその腕に突き出した。足で立たせたら私の役目は終わりだ。どこへでも行くがいい。しかし簡単にはいかない。掴んだのを見てひっくり返そうとするとぽろりと体が離れてしまう。私は虫をしっかり観察したいと望……むどころか出来るだけ避けたくらい苦手なので、早くなんとか自立してくれと焦った。何度か繰り返した末に、カマキリは傘をしっかり抱きしめた。嫌な予感がした。予感は的中した。今度は離れてくれない。それどころか私の手元に向かって尻からよじのぼってくる。堪忍してや。似非関西弁が口を出た。お前を元の体勢に戻すまでは誓ったが。私の動揺をものともせずカマキリはもじもじ尻を振りながら上ってくる。私は傘をそっと振り、この一振りでまたもカマキリがひっくり返って落ちるかもしれないことなど考えもせずにただ離れてくれることを願った。ぽと……とカマキリは落ちた。うまいこと足から着地した。よし、じゃあな。あとはその足で生きるんだぞ。私は逃げた。
 それにしても何故今日はカマキリをたくさん見たのか不思議に思って調べてみた。どうやら十月はカマキリの産卵時期らしい。産みつける枝を探していたのかもしれない。そういえば何となく腹がふっくらしていたような気がする。あれが妊婦だったとしたら、その場に置き去りにしたのは慈愛が足りなかったなと思う。思ったからといって、彼女の元には戻らないのだけれど。



10.29

 人形の顔の成形をした。眼球をはめていない状態でも人らしくて、これで眼をはめこんだら鬱陶しいのではないかと思う。視線が合わないように作られた人形は、心地よく部屋にいてくれるかもしれない。眼には意識が芽ぐむ。きょろっと動かされるかもしれない、潤いに満ちて露出した部分に異様さがある。生身の人間は、他の部分もベタベタしているので眼も馴染んでいるだけのこと。



11.09

 画面を見つめすぎて目が霞む。それで疲れてすぐ寝てしまう。じゃあノートとシャーペンを使っていればいいじゃないの、というふうになるけれど、手に持つのが面倒くさい。書き始めたら芯のなめらかな書き心地にノせられるのは分かっている。床に筆記具が放置されている。手を伸ばせば届く。今、なんとなく伏せてあったノートをひっくり返して面を向けさせた。色々書いてあるが、目が霞んでいる最中なので、やはりこの文字も読めない。



11.19

 外の一部が欠けて内が露見する化けものというのは見えたその瞬間といい、蓋をされないでやわらかい部分を晒し続けている鋭敏な痛ましさといい、「触るべからず」のふさわしくない境遇に不安を覚える。では、内をひっくり返したような化けものが同じようにぬたぬた歩いていたらどうかというと、それはソウイウモノなので脅威に思わない。しかし内を外にしていた化けものが、内をまるめて外を見せたら、どんなに清潔そうな肌理でもおぞましく感じるだろう。最初に出会った姿がナチュラルを印象づける。化けものは化けた後の姿ではなくて、その瞬間にだけ立ち現れる存在かもしれない。それなら、化けものであり続けるものはこの世にいない。さて、言葉は発した時点で既に変化をあらわにしているが、化けものと認識されない仕組みは、耳や目から入ってきた言葉は、ひとりひとりの体の内であらためて発されるからである。知ったときにはもう飲み込んでいる。言葉は限りなく近くにいる化けものだ。それが変化することに、気付かないままの。



12.03

 寒い。



12.07

 人間の感情について。四つに分けると「喜怒哀楽」。感情を表現するには、飛び跳ねるとか、拳を振り上げる、叫ぶといった動きの他に、言葉という手段がある。では、その感情を伝える言葉はどれくらいあるのだろう。
 表現の数が多い、幅が広いということは、それだけ感じているということで、伝えたい想いも大きいのではないかと思う。しかも長引く感情だ。時間が経っても反芻しやすければ、表現の幅も広がる。臨場感をもって伝わるかは別として、この味は何だろうな、と考える余裕と割ける冷静さは豊かさに繋がるはずだ。
 そこでもし「喜」の表現が多かったら、人間は根から幅広い喜びに満ちているという結論に至れる。そんな気がした。
 さっそく類語辞典を開く。ざっと見たところ……怒・哀が、圧倒的に多い。喜・楽のおおよそ二倍だ。それだけ多くの怒りや哀しみを人間は表現しようと、せっせと言葉を紡いだらしい。「生き残るには危険から身を遠ざける方が手っ取り早い、だから嫌な記憶ほど脳に残りやすいようになっている」と誰かが云っていた気がする。言葉もその通りだった。人間は怒りと哀しみに生きている。愛だ喜びだ幸せだ、と単純な言葉を繰り返し口にするのは、保ちにくい性質だからだろう。そうして主張されるのは、脅迫的欠乏感。かなしい生きものだ。



12.23

 デモクリトスとエピクロス、ふたりの哲学者が目に留まった。今から二千五百年前に生きていたギリシャの人間だ。このふたりと似たような考えを、私は子どもの頃に体得している……と思った。
 電信柱を前にして感覚を得た粒子の寄せ集めの拡散と凝縮、目の前の物体が自分になりそこなった自分の一部であるという自己存在の拡大解釈と一体感。地球や宇宙との、妙に寄せ集められた一時的な自己という確信。ものを知らない私が、そんな思考と感覚に至ったのは、二人の思想が私がそれまでに触れた言葉や映像、芸術作品の中にひっそりと流れていたからかもしれない。自らひらめいたかのように思うのは、人によくあることだ。それでも、言い含められて暗唱する学びとは違って、確かに自ら感覚を得た。人に語ることをせず、共感も求めずにいた。私に示された世界は、『人』用ではなかった。だから新しいことを発見したと、人に向かってとりたてて騒がなかったのである。そのときの私は電柱に語りかけるべきだと考えた。私になり損なったお前、お前になりそこなった私、と。
 知識として得たことと、体感として得たことは感覚があまりにも異なりすぎる。雪のように降り積もる知識を、頭に被るか、張り巡らされた根から吸い上げるか。後者は生々しい理解がある。自分だけだという感覚に満ちている。
 エピクロスは『隠れて生きよ』と標語を掲げた。社会から一歩身を引くことを推奨した。しかし彼は、孤独でいることを推奨したわけではない。
 孤独な人間は世を去ってゆくばかりであるから、似たような傾向の人間は淘汰されいなくなり、であるならば残った人々とは分かり合えず、ならば未来の人間はその人と同じ人間といえずに親しみを感じることなど到底不可能で、誰からも同種と思われまい。こんな考えは誇大的で、文字にしてもうんざりする。しかし考えてしまったことには仕方がない。
 数千年も昔の哲学者に共鳴を少し感じただけで息が詰まる。自分を含めて人は数千年前の人間と同じように人間であり、変わらないのだ。同じ人であることの、安堵と虚しさ。生死への朗らかな馬鹿馬鹿しさに囲われて、いつのまにか笑い声を上げていた。



12.31

 人が「眠っている間に見た」という夢を書いた文章で、面白く思えたものがない。
 荒唐無稽、支離滅裂、破綻した物語に見合わない合理性が現れる陳腐な表現。そして、お約束かのように描かれる性的な象徴、直接の裸体。またその繰り返し。絵ならまだ抽象を伝えることができようが、文字は整然としすぎる。
 商業の文章さえそんな調子なので、他人に自分が見た奇天烈な夢を語るなぞ、退屈で旨味のないことの代表だと思っていた。
 けれど最近、人から夢の話を直に聞く機会がどういうわけか多く、その話を聞くことを楽しんでいる自分がいることに気が付いた。積極的に人の話に耳を傾けてさえいた。
 生身の人間の声(=音)からは文字で綴りきれないイントネーションを拾うことができる。話の続きを促すことも、解釈の片棒を担ぐこともできる。会話はリアルタイムで行われる夢の続きのようなもので、スペクタクルに取り込まれ、共々流れてゆく。
 夢を思い出しながら喋る人の横顔を盗み見る。彼らは皆、近いどこかを眺望する不思議な眼差しをしている。