幻誌
一月二十二日
やわらかなものを抱えて帰る。全長が私の鳩尾に届く大きな繭──湿気て黒ずんだ布──を鋏で裂き開くと、未熟な軀が納められていた。
頭、頸、胸、手、足、蝋細工のような濁った肌に、藍や紫の黴じみた斑点模様が咲いている。朦朧と開かれたまぶたを、私は切り込まれた空洞と見誤った。奥に眼球が収まっていた。腿のあいだの、ひたと閉じられた貝の合わせからは出来損ないの塊が零れている。反した背中には、歪んでしなびた一対の腕がたたまれていた。
関節のくぼみや背の腕にこびりついていた汚れを慎重にふやかしながら落とした。冷たい軀は、桃と護謨の合いの子の手触りがした。未だ生臭さが私の指先に残っている。
一月二十三日
昨晩は付ききりで夜を明かした。
剥がした布は異臭がひどく、庭で枯れ葉と共に焼いた。
部屋に入る度、もう息はないだろうと思わされる。暗がりで眺める顔に生気を感じない。毛布の下で腐敗しているのではないかと捲るが、今のところは裏切られ続けている。
一月二十五日
居間の長椅子で眠る。熟睡はできない。数時間おきに寝床の様子を見に向かう。吸い飲みを口の端から差しこんで、無理やり水を与える。嚥下する力はかろうじてあるものの、ひとさじにも満たない量しか受けつけない。
褥瘡のきざしがあった。背の腕が寝返りの妨げになっている。赤みがかった局部を避け、撫でさすってやった。されるがままだ。揺すられて、鳴きもしない。
一月二十六日
灯を枕元に点した。吸い飲みを手に腰掛けると、敷布と枕のやわらかい陰に沈んでいた頭が傾いだ。そして、まぶたがゆっくり開いた。
虚ろな眼が私の腕を辿り、顔の上で焦点を結ぶ。目脂のせいか、痛そうに細められている。暗赤色に潤んだ双眸は、ものの数秒、私のまなざしと交差し、再び閉じられた。
意識がはっきりしてきたと知るには充分だった。寝床を離れ、去り際に振り返ると、毛布の中へ顔を隠して腹部を庇うように丸まっているのが見えた。
この様子なら予想よりも早く、はっきりと目覚めるかもしれない。
一月二十八日
お目覚めだ。
一月二十九日
最初にあの眼を空洞と思ったのは、眼孔の奥まで透くような丸い眼をしていたからだった。暗がりで赤色に光った眼が、陽の下では黒々と深い。
座りが悪く、上半身を起こさせてもすぐに倒れる。肩へ寄りかからせ、支えながら水を飲ませた。口に注いだ水が、合わさった唇の隙間に光る。
重湯を最初の食餌にした。匙で押しこむように流しこむ。そのついでに、口の中を見た。
歯のない口腔、短くぽってりと厚い舌。病みあがりのためか白い膜が張っている。咀嚼は難しそうだ。今後、固形物を与えるならば、すり潰す必要がある。もしくは丸呑みをさせよう。
幾つか名前を考え、*と呼ぶことにする。
一月三十日
せっせと匙を運んでいた最中のこと。*は唐突に口を噤んでいきみ、肌を粟立たせた。みるみる首から耳まで赤くなり、肩が落ちると同時に小さな溜め息を吐いた。しんなり脱力した軀の下から聞こえたぐずついた音に、何が私の膝下で行われたか、遅れて把握した。
完遂されるまで待ちきるほうが間抜けなのだ。とはいえ、始まってしまった一大事を邪魔しても仕方がない。間の悪さに目を瞑れば上等だ。
二月五日
普段ならば訪問客は無視をするが、裏口を執拗に叩かれてはかなわない。予告もなしにやってきた友人は、会うなり私の顔色の悪さを指摘してきた。鳥の雛を拾ったので眠らせてもらえないと言うと、そうかとあっさり頷いた。
訪問の要件を聞いた。会わせたい人がいるとのこと。物好きがいるものだ。
友人を見送った後は、寝床でなにやらもぞもぞと動いている*の姿を、扉の隙間から気にかけつつ過ごした。
二月十三日
*は壁を向いて横たわっている。毛布をまくると背中の歪んだ腕をこわばらせる。
思うように食餌の姿勢をとってくれず、無理やり口に匙を突っ込んだ。
二月二十日
皿のほとんどを難なくたいらげるようになった。口に含んでから嚥下しきるまでの間隔が短くなってきている。私も給餌をすることに慣れた。*も諦めがついたか、匙を口元にそっと押し当てるだけで、素直に開けるようになった。ただ、すぐに俯いたり、顔を逸らしたりする癖はぬけない。その度に顎を掴んで正面を向かせている。だからといって食餌が嫌いかというと、そうでもない。集中に欠けるだけだ。
皿を持った私を前にすると、惑い、手をついて身をのりだす。その姿は与えられるのを待ちきれないかのようだ。
二月二十四日
回復がめざましい。座っていても頭がふらつかなくなった。頭部に細く髪が生えてきている。ただ、背の腕だけは色が失せたままだ。揉んでやれば血がゆきとどくかと思ったが、長く触られるのを嫌がる。数回揉みしだくだけでは手応えがない。手を離すと腕はだらりとゆるみ、ぶら下がっているだけの状態に戻ってしまう。
未だに吸い飲みで水を飲ませている。飲み口を咥えて遊ぶようになり、先端が潰れてしまった。
二月二十八日
潰されないものを探して哺乳器を手に入れた。うすめた脱脂粉乳を与える。最初は口元に当てられることに抵抗を示したが、しずくが唇をかすめるや、先をねぶりはじめた。お気に召したらしい。夢中になって咥える。息を吐くのも惜しいのか、限界まで吸いつき、口を半端にあけて苦しげに息継ぎをする。おそろしい勢いで中身を減らされた。そのまま傾け続けていたら、哺乳器の四分の一をきったあたりで吸いつきが止まり、嘔吐いた。あまり配分をまかせてしまうのもよくないようだ。
三月三日
頃合いを見計らって口から哺乳期を離してやる。惜しげに口が後を追うが、かじりつく歯がないので簡単に抜ける。
寝床から立たせる練習を行う。ほとんど寝たきりだったにも関わらず、しっかり床に足をつけることができた。だが、まだひとりで立つことは難しい。寄りかからせた状態から離れようとすると倒れてしまう。
家にいる間は出来るだけ同じ部屋で過ごしている。つい先日まで、*は壁を向いてばかりいた。今日はあらぬ方向に顔を向けて、ほんのり口を開けている。
私は本を読んでいるふりをして*を盗み見た。黒い眼に光が反射した。好奇の瞬き。なにかを追って眼が動いている。しかし、何を追っているのかは、よくわからない。
三月十二日
部屋を出て行こうとしても反応がないが、部屋に戻ると頭をわずかにゆらしてこちらを向く。小さく口を動かしている。給餌を思い出しているのだろう。それか……喋ろうとでもしているのかもしれない。
床の塵を、吹く風がさらう。花の香りが部屋に舞いこむようになってきた。長椅子での睡眠が、多少は心地よくなりそうだ。
三月二十二日
連れてきてからひと月が経った。あの鉄錆臭い汚れを拭い去り、清潔に保ってやっているはずだが、まだ淀んでいるような気がする。
口腔が舌もろとも血のように赤い。怪我ではない。滾っている。歩かせようと支えた腰も熱く、生気を感じる。支えがなくなりそうになると切なげに鼻を鳴らすものの、めでたく寝床から離れることが出来た。
三月三十日
気まぐれに匙を持たせてみた。*の指は痩せており、関節のふくらみが目立つ。張りついた皮がくびれている。手本を示すよう匙を持って皿の中身をすくい、自分の口に含むふりをしてみせた。*の視線は匙の先から私の顔のあらゆる箇所に転々と当てられた。ひとつの動作への集中が弱い。置かれた食器に手を伸ばす気配もない。下ろされたままの*の手を取り、匙を渡した。苦心して親指、人差し指、中指の三本で柄を握るよう指を摘んで持たせたというのに、私が手を離すとたちまち匙を落としてしまう。何度か繰り返し、握らせた匙を唇に押し当てた。難しいものだ。*が首を反らすせいで、汁がこぼれて襟が汚れた。
四月十四日
支えなしで部屋を動き回るようになった。寝床から離れる時間が長くなり、行動範囲が広がりつつある。眠る場所を返してもらう予定だったが、私のほうは長椅子で眠ることに慣れ、その寝心地も悪くないのでこのままでよい気がしている。
四月十五日
外から帰るとき、家の中はいつも静けさに包まれている。息をしているものがいるとは思えない。柱時計の振り子の単調な音と、床板の軋みが重く響く。
寝室──*の部屋をそっと覗くと、*は寝床で膝をつき、伏せるような格好で丸まっていた。顔がこちらを向く。瞳孔がひらいていた。
四月十六日
匙を押し付けても頑として口をあけようとせず、そっぽを向く。日中は項垂れて壁を頭の支えにしている。
傍に座り声をかけると、背の腕を伏せながら私の膝の上に乗ろうとする。落ち着きなくまばたきをしている。
四月二十日
とても大人しい。四本の腕を折りたたんでうとうとしている。
五月二十日
埃が*のまつげにのっていることに気付いた。随分と長く伸びて麗しくなったものだ。お飾りを得ただけではない。唇は潤い、眼もくっきりひらき、ときおり見せる一瞬の閃きには知性すら感じる。
その反面、未だ黒ずむ背の腕は不釣り合いに汚いものを負っているとしか思えない。
五月二十七日
軀に肉がついたからか、いよいよ活発に動くようになってきた。最近は部屋の扉を開け放しており、家中の好きな場所に行き来ができるようにしている。
五月二十八日
庭に面した廊下で陽を浴びる。*はお気に召さないようだ。眼を細め、すぐ日陰に隠れようとする。それでも私が陽の降りそそぐ廊下に椅子を置いてくつろいでいると、物陰を出るかためらっている様子が伺える。こちらへ引きずりだすのも酷と思うので、かまわずにいる。
六月六日
背の腕が痒いらしい。壁にこすりつけて歩く。黒ずんで鱗状に割れた皮がはがれ落ち、露わになった肌もこするせいで、赤黒くひきつれている。
壁を使っても背の腕の付け根を掻くのは難しいようだ。あまりに苛々とした様子だったので、手を潜らせ揉みしだいてやった。しばらく気持ちよさそうにしていたが、どうかして痛みがはしったらしく、私の手を弾いて逃げた。
放っておいてしばらくすると、またしてほしいと言わんばかりに腕をぶつけてきた。
六月十九日
姿を探し部屋から顔を出せば、うす暗い白熱灯が点く廊下の、二階へ続く階段の前に*が立っていた。上階を仰いで立ちすくんでいる。
おいでと声をかけると*が振り返った。さらに呼ぶと、小首を傾げ私の顔を凝っと見つめ、ふ、と右腕を浮かせた。ゆるく伸びて、指すような形で宙に留まる。*を抱えようと腕を広げ、腰を屈めたところで、私に向けられた指先が妙に気になった。どうもその先は、私の背後を指しているように思われた。名状しがたい気配が形になろうとしている。二階へ続く階段を見上げる気にもなれなかった。誰が使っている部屋もなく、滅多に上がることのない上階。
違和感をふりきり、抱き上げて寝室へ向かった。私の背後には、何もなかった。
七月一日
見知らぬ訪問があった。橙色の格子柄が織られたチョッキを着た男。半月型の眼鏡。灰色の口髭と、撫で付けられた髪。
無数の蝶々が、盛んに男の周りを飛んでいた。外の呼び鈴が鳴らされている間、私は息をひそめていた。こころなしか*も普段以上に静かにしていたように思う。
七月三日
再度訪問あり。男は長々と立っていた。立ち去ってからしばらくして、また門前に現れた。今度は門に紙を挟んでいった。読めば、以前に友人が口にしていた人である。対面することにした。
その人は玄関先で私に、おひとりで住まわれているのですかと問うてきた。肯定すると、含みのある微笑(わら)いを返してきた。この御方は気配に聡い。聞けば色々なものの蒐集家だという。
七月十三日
夕立。閃光。庭先に落ちたかと思うくらい近くで轟音が鳴り響いた。*が震えていた。怖いらしい。毛布の下に押し込む。その上に手をのせて宥める。雷鳴に、*はふつふつと荒い息を吐いていた。
雨と風が窓を叩く。居所を暴こうとする全てから隠れるために、部屋を閉ざした。
八月四日
出掛けようとすると*が扉までついてくる。そのまま共に外に行こうとするので、部屋にそっと押しこんで鍵を閉める。内側から、こつこつ叩く音がする。やがて静かになるものの、後ろ髪を引かれる。
血が滲むほど軀を掻き毟る癖がなおらない。それに、まぶたの腫れ。帰宅するとだいたい悪化している。
なぜ私が扉を閉めるか、こういう類のものは言い聞かせても理解しない。
私が帰ってから*はずっと、椅子に座る私の脚の間に割りこんで、腿に頭を寄せている。のんびり欠伸をしているあたり、まもなく眼を閉じてしまうだろう。そこで眠られるのはかまわないが、涎が気になる。
八月十三日
*を外へ連れ出そうかずっと考えている。二人だけで散歩くらいならば。
庭の祠に供えていた酸桃を切り、欠片を*にも与えたが、舌に触れるや吐き出した。
九月二十五日
*を膝に抱えて、背の腕を陽に晒す。桃色のてらてらした新しい皮膚にしわが寄っている。
摑まえている間、*は窓に背を向け、私の肩に顔を埋めている。肌が熱っぽく汗ばんでくるそのうちに眠ってしまう。背中から如何とも表現しがたい獣のにおいがたちのぼってくる。腕の根元に鼻を近づけ深く嗅ぐと、炒った豆類に似た甘いにおいもする。
九月二十七日
箪笥に仕舞っていた衣類を*に着せるために割きながら思う。適当な服がない。私の服は大きすぎるうえに、通す腕の数を考えると、つくりが相応しくない。一枚を羽織らせるだけで済ませているが、外へ連れてゆくなら整えなければ。
伸びた*の髪を梳る。耳を隠すまでになった。天使の輪が鈍く光っている。
十月一日
黒い天鵞絨のリボンが留め具になっている靴を履かせた。庭を歩く。踵が小気味よい音を立てる。
扱いに慣れないために、ぎこちない。手を繋いでやるより肩に腕を回していたほうが、並んで歩くのに安定する。
十月五日
冬に向けて*の衣類を新調する。
銀ボタンの外套、つば広の毛糸帽、靴下、手袋。
襟巻きは私のお下がりで藍色のものがあり、それが一番肌触りがよい。
外套を羽織らせてみた。背中が奇妙に盛り上がるのは避けられない。
十月十三日
はじめての外出。今晩は曇が厚い。月も隠れている。人々が寝静まった頃に外へ連れ出した。家の周りをぐるりと、時間をかけて歩いた。*は私の顔を絶えず見上げていた。
十月十五日
応接室で机を囲む。蒐集家が「失礼ながら」と言って指先で曲線を描き、*がいる部屋の扉へ向けて掌を開いた。この人は微笑うと目尻に縮緬模様のしわが寄る。目の奥にあやしい光がちらついていた。「もしや人形をお持ちでしょうか。」蒐集家の声には、興味が湧いたものに対する冷静さを装った興奮が滲んで聞こえた。
私はのんびり否定した。蒐集家は笑みを浮かべたまま、「左様でしたか。実は我が家には大勢おりまして」と言って足元に視線を落とした。その目は脛にじゃれつく何かを追うように漂っていた。口の端が歪む。「よろしければご覧になりませんか」と誘われ、招かれることにした。
十月十九日
蒐集家の邸宅に赴いた。
私の目当ては蒐集家が言っていた人形だ。喫茶もそこそこに、蒐集家は白い布が被せられた長方形の箱の前へ私を案内した。
箱の前に立つと、蒐集家は布を取り払い腕に丸めこんだ。
硝子の棺桶の中で、人形はうたたねをしていた。ゆるやかに巻かれた栗毛が輪郭を縁取っている。まぶたをゆったり伏せ、吐息を漏らす唇の隙間から粒揃いの歯がのぞく。身の丈の半分以上を占める双翼で自らの軀を包んでいた。上肢に挟まれた胸がささやかな渓谷をつくる。甘やかされた肉付きの前腕を下腹部で交差させ、垂れた象徴の脇に添えており、十本の指に囲われているものに否が応でも視線が向かう。楕円の爪は照り、今しがたまで口に含んでいたかのように水っぽく生々しい。
人形は生きていようがいまいが、勝手に動くことをよしとされず、囲われている。こういったものは予想外の所にあってはいけない。埃を被ることになろうとも、愛でられる時をいつでも待っていることを望まれる。
妄想を継ぎ接ぎにした贋作だ。だから至上の瞬間を保ちつづけている。
良いとも悪いとも言わず、蒐集家と私は人形を眺めた。部屋には他にも白い布を被せられたものが沢山あった。その布の下から無数の眼がこちらを伺っている気がした。
帰宅した私を迎えてくれた*の顔色の悪いこと。これこそが生きている色だ。
十一月七日
紅葉を踏みしめる音はかろやかに、時折吹く冷たい風を意に介さず歩く。葉を一枚拾い、*の前でくるくる回した。それを*が捉えたので私は指を離したが、*がひとりで摘んでいたのはたった数秒で、ぱっと放られた。また別の葉を拾うと手を伸ばしてくる。しかし渡すと放られる。次第に手から毟り取るようになり、その全てが放られた。
十一月二十九日
軀の構造、持ち合わせた感覚器官から得る諸々の刺戟は、私と他人が共通して具えている先天の贈りものだ。生活形態や嗜好、経験が反映される行動は後天のものだが、人の形はおよそ奇怪で、同一に近く意思の疎通がはかられてもなお拭い去れない不審がある。そのような不審を抱え、私は人の形に翻弄されている。目に映るものからの支配は抗いがたい。
私は自分があれの背の腕を覆い隠そうとしていることを、わきまえなければならない。人らしさを尊重しようとしているのであって、天性をそのまま受け入れてはいない。人の感覚でものを語っている。人、という膜を介する虚偽と共にいる。純に捉えることが私にはできない。
十二月三十一日
大晦日。快晴。南天の枝を折り、飾る。雑巾を片手に歩きまわる私を横目に、*は窓の外を眺めて背の腕を広げたり閉じたりと長閑な様子だった。声をかけても反応がない。顎を天に上向けていた。
庭に連れ出した。脇下を掴み空に放るよう持ち上げる。ぱっと背の腕が広がった。暴れはしない。腕にしがみついてきて、いけなかった。何度か試みるも首根に齧りつかれ、息が苦しくなるばかりだった。引き剥がそうと四苦八苦しているうちに地面に水滴がぱたぱたと落ちたので、*を抱えて部屋に戻った。
一月一日
庭の祠に酒、だし巻き玉子、蒲鉾、胡麻塩飯を供えた。
昨晩は眠ろうにも*が部屋の扉を内側から叩き続けるので、横になっていられなかった。
寝かしつけようと毛布の上から撫でさすれば*は眼を閉じるが、私が少しでも手を止めると直ぐ眼を開いて身を起こそうとし、一向に眠らなかった。
今日は素直に眠っておくれと願わずにいられない。
撫でさすりながら船を漕いだ片時に、初詣へ赴く夢を見た。境内に足を踏み入れる。小ぶりな祠や傾いた燈籠が連なり、顔の削がれた地蔵が所狭しと並んでいた。深い苔に覆われている。以前訪れた時と変わらない光景だった。静けさに、うなじの毛が逆立つ。異様に凍みるのは、冬の寒さのためだけではない。
一月十五日
夜、雪の降る中を*と歩いた。細かな雪であったから、足元の悪さを気にせず済んだ。*には毛糸の帽子を被せ、私は傘を差す。さらさらと耳に心地よい音が降り注いでいた。並び歩くのもだいぶ慣れて、肩に回す手を徐々に外すよう心がけている。
三月七日
沈丁花が咲いた。胸元であたためたような甘くやわらかい香りがする。木戸の横で例年と同じく、細い血筋の浮く水晶の花をつけた。別段に手入れをしていない株だが、毎年律儀に咲き、香りを撒いては淡々と身を枯らす。
一本だけ枝を切った。眠る*の鼻先をくすぐる。花の香りは寝覚めを誘う。鬱陶しそうに追い払われてしまった。もたつく腕があどけない。
三月二十七日
庭への掃き出し窓を開けたままにした。軒先では雀が桜の花を摘み、くちばしの先で遊ばせている。数羽が枝にとまって花をぽとぽと落とすので、樹の根元には咲いたばかりの花が降り積もっている。名残の雪だ。私が見守る前で*は庭をしばらくうろつき、北風に首をすくめた。舞う花びらには興味がなさそうで、蕾を握り潰してまわっていた。
四月四日
午睡の折、息苦しさに目が覚めた。*に腹の上を陣取られていた。図々しく思えるこの振る舞いも、私への甘えと思えば悪くない。背中をさすり、筋張った腕の付け根を揉んでやった。
四月十三日
腹への執拗な押しつけが続いている。*は私の内臓の震えをたのしんでいるようだ。服の中に頭を突っ込み、頬をべったり腹に付け、額を押しこんでくることもある。わざと息を止めたり限界まで吐いたり、色々に反応をしてやると興味深そうに軀をゆらす。行為は止まず、夜すら寝床を抜け出して私の眠る長椅子の元へやってくる。すぐ起きて退かせばよいのだが、垂れこむ眠気に、面倒が勝る。無視を続けどれくらい経つか、まどろみのさなかに*が手をついて腰を浮かせた。飽きたかと期待するも腹の上に座り直しただけだった。両腿に挟まれて下腹部が脈打つ。なまあたたかい不本意な疼きが凝りはじめ、慌てて*を退かした。寝床に連れ、あやし続けること半刻。穏やかな寝息を立てる*に対し、こちらはまんじりともできず、今もなお具合が悪い。
四月十五日
慎み深く、遠慮をしながら寝床にあがる。たとえ端に追いやられ身動きがとれずとも、長椅子の硬い座面よりかは深く眠れる気がした。
六月七日
雨が窓を叩く。気分がすぐれなかった。割り砕いた氷を盥に浮かべ、両手を浸し涼む。
*はひとり遊びをしており、階上や廊下を歩く足音や、ものを投げたらしい音をたてていた。いつものことだからと私は気を抜いて長椅子で眠りかけていた。その耳に、突如として派手にものが落ちる音が届いた。浴室の方からだった。何が起きたか確かめにゆくと、盥が覆され床が水浸しになっている。引っ掛けたのか、台から床へわざと落としたか、広がる水溜まりの中心で、*が座りこんで遊んでいた。私は傍に膝をついた。
*が無邪気に床に叩きつけている手を取った。掴まれてわずかに抵抗を示した手の、その冷たさ。誘われて、額ずく。心地がよかった。
目を瞑ったのはどの瞬間だろう。次に目を開いたとき、私は水溜まりに身を横たえていた。首を回してみれば、*が背の腕を私に被せて眠っていた。
雨音が止んだと気付いたときに、終日ろくに食餌を摂らせなかったことを思い出し、*を揺り起こした。淡々と済ませた食後、やがて私たちはよく眠り、とてもよく眠り……。
六月十三日
硬直した視線にまた会う。何も見ていない。聞こえていない。息を潜めている。どこか遠くに自身を置いてきたか。上の空だ。顔の前に手を遣っても、一点を見つめたまま動かない。幻想のなかに生きている。同じ空間にいながら別の時を過ごしている。
いつのことだったか、夕頃に女が、ぽっと点いた街灯の下に現れたことがあった。街灯の下からその隣の街灯の下へ、節足動物を思わせる俊敏さで移動し、私の行く手を阻む。息をきらした女は大きく口を開けて腹を凹ませ、クッと空気を飲み込むと、開けた口のまま隣の街灯の下へ駈け、詰めていた息を吐いた。安堵したように肩が丸まっている。女の道程は果てしなく思われた。すれ違いざま、女はぶつぶつと「いとじゃない、じゃなくない」と唱えていた。ひとじゃない、ひとじゃなくない。あれ以来は一度も見かけないが、どこまで灯を辿っていったのだろう。
七月七日
欲を掻き立てる対象は、人に似た要素を持ち合わせている。私が人であるから、感覚をくすぐるのは同種の他にいない。たとえば机の脚の曲線に、人の脚や腰、うなじの曲線のなだらかさを見ている。人を投影し、美しいだとか醜いだとか、細々と文句をつけている。純粋に机の脚として魅了されたとはいえない。人の造形に好意を抱いている。
目の前にいるものを問えば、*はらしさと、らしくなさを私に見せつける。ときには沈黙をもって私に寄り添う。私の感情を汲み取り、その上で黙っているかのようにみえる。
みえるというのは厄介だ。みえる形にこねくりまわして、そこにあるものを失う。幻を幻だと気付かずに、それを人だと思うならば、それは人として存在し、同時に自身もまた、あずかり知らぬ幻の中で、きっとそうであろうと形を見定められている。
七月八日
互いを脅かさないこと。
七月十三日
私が背の腕の根元に鼻を埋めてみるのと同じくらいの頻度で、*もまた、私の首筋に鼻を押し付けては、ふんふん、と鳴らす。
私の首に鼻を埋める魂胆は、そこが常に露出しており、鼻を近づけやすいという理由以外のものもあるかもしれない。軀の奥底には石のようなものが沈んでいる。温い袋の表面にひたと鼻を当てれば嗅ぎ分けられる。それが鼻の持ち主をくすぐる。*の舌が短いゆえに、舐めることが困難なのは私にも*にとっても、幸いだった。
七月三十日
閉めきった部屋の窓辺に立っていたら、背後で床の軋む音がした。振り返り見れば*だ。裸足で歩いている。朝に靴下を履かせてやったのに、どこかへ脱ぎ捨ててきたらしい。私は壁に寄りかかり、*がこの部屋に何を見つけるか待った。*はまっすぐやってきて私の足の甲に腰を下ろし、自分の両足を怠惰に伸ばした。口の利けないこの生きものを好ましく思う。
八月十五日
*が夕餉をひとくちも食べられずにそのまま熱を出してしまった。思い返せば昼間、しきりに眼をしょぼつかせていた。今日のような日は特に眩しかったに違いない。哀れなことをしてしまった。早く気付いて日陰の部屋に移してやってもよかったものを。触ったまぶたは熱を帯びていた。冷やそうとしても、濡れた布を嫌がる。仕方なしに、氷の欠片を握り冷やした手で抑える。怯えるかと思っていたが、予想外に*は心地よさそうに目元をゆるめた。うすいまぶたの下で眼玉がくるくる回る。押し潰さないようにするのに気を遣った。
八月十六日
ぐったりと寝床に横たわったままだ。寝苦しそうにしており、汗をかいた額に髪がはりついている。虚ろなまなざしをしていた。陽射しを遮った暗い部屋で、団扇をあおいでやる。灰色がかった肌に不安が滲む。*の健康を望んでのことではない。私自身の不快感を払拭したいがために回復を祈る。悪いことだろうか。
九月一日
まるきりというわけではないが、人の手にかかることに頼りすぎている。堂々と享受しているというよりも、拒絶の術や抵抗の意思が欠落しているように思う。
蒸かし芋を、ごろりと丸のまま皿に出す。匙を持たせると*は迷うことなく芋を潰しはじめた。こめられた不器用な力に、指先が白く震えている。芋は粗くゆっくり崩された。やがて疲れたらしく*は手をゆるめた。その後は匙で突き刺すように芋を攻撃し、黙々と啄んでいた。
九月十六日
蒐集家は何かを嗅ぎ取っている節がある。我が家への好奇心が肥える前に、*を会わせるべきかもしれない。しかし無類の珍品好きという趣向が私を不安にさせる。分別がないとはいわないが。
九月十七日
情熱と執着。好意があれば誰しもが許されるとは思わない。その熱はどちらかに偏っていないだろうか。許容されたものだろうか。大切にするとは、異質であることを前提に、いかなる表明も存在も許容することか。生殺与奪の権を互いに持ち合わせていることか。同じ時を過ごすことか。
十一月十日
散歩の途中に、古い木造建築の平屋を見かけた。壁が蔦に埋もれている。家の中の様子はわからない。玄関先に柿の実が数個、腐り落ちていた。中途半端に開けられた錆びた門の前に佇む。嗄れた風の唸り声が聞こえた。葉の隙間から断片的に漏れ聞こえる。抑揚は波のように寄せては返す旋律で、私の足元には砂埃がたまりつつあった。
二月二日
*を連れた夜の散歩途中に、社の前を通りがかった。荒れ果てた境内にかつての参拝者の面影はない。鬱蒼と木々が社を覆う。小さな森だ。ここが何かを祀っている場所だということは隠されている。決して明るい場所ではない。人々はここを憩いの場に選びはしない。本殿の戸は古びて黒い。長く縦に亀裂の入った柱が目立つ。歪んでしまったのか、開けることはできない。格子戸から見える狭い屋内には色褪せた布が大量に吊り下がっている。
ここにあるものは、願掛けか奉納品、遺棄されたもの。私はここで盗みを働いた。そして大胆にも、盗んだものを小脇に抱えて戻ってきた。
枯葉に埋まった石畳。月明かりが地面に斑紋をつくっている。今、この場に感じるものがあるかと問われれば、何もない。あの日に私を呼び寄せたのは、生きているという気配だったのかもしれない。
帰ろうと身を翻す。元の散歩道に戻る手前で、背後がやけに静かだと気付いた。振り返ると、*は私から離れて俯いていた。不思議に思い*の元に戻った。どうしたと話しかける。顔を上げた*の面は血の気がすっかり失せていた。私の影に光を遮られた眼玉は落ち窪んでいた。私はもう一度、どうしたと声をかけ、抱き上げようとした。普段ならば素直ではないにしても反応がある。しかし*は夢でも見ているかのように鈍かった。広げた腕は予定していた動きを失った。抱き上げられるのが嫌というふうでもない。こちらを全く無視しているのでもない。私は虚を覗いていた。その虚に抱いてしまった不気味な心地が、じっくりと腹立ちに変わっていこうとしていた。それでも辛抱し、腕を広げたまま様子を伺った。そう長くは黙っていなかったはずだ。
烟っていた*の眼の奥へ、はっきりわからぬうちに星が落ちた。ちらちらと輝き、眼縁に溜まって、頬を流れた。ゆっくりとしたまばたきに、縁いっぱいに馴染んだ雫が細かな粒となって散る。道筋を得たそれはとめどなく、耳の下、首筋、喉、と伝い消えてゆく。私は拭うものを取り出そうと懐を探り、何も持ってきていなかったために指で撫でることしかできなかった。かなしくなってしまったのかと聞く。問いかけた言葉に、人と同じ反応は返ってこないと知りながら。涙はすくう端から冷たくなる。息をしているのかわからないくらいに静かだった*の呼吸が、唐突に乱れた。喉奥から圧された呼吸が細い喉を通り幽かな悲鳴を上げ、きっかけもなく溺れてしゃくり上げ始めた。泡立つ咳が混じる。
私は他にどうしたらよかったのだろう。しばらく抱擁したのち、今度は有無を言わさず抱き上げた。
夜道に抱く軀は、息を吸いきれないのか苦しげだった。背中を軽く叩き、抱えた全身をゆすってやった。やがて腹の痙攣もおさまり、小さな溜息のようになって、*はさらなる庇護を求めるように、もぞもぞと私の首筋に顔を埋め、出来る限り腕の中に収まろうとしてきた。何度か抱え直せばようやく落ち着いたのか、詰まった鼻を鳴らし動かなくなった。私の首に回された手は、襟を握りしめて硬かった。
二月三日
豊満とまではいかずとも、やさしい稜線を描く頬と、やわらかな髪、黒眼の透けるうすいまぶた、甘ったれて少し生意気に尖った唇。枕にふっくらと頭をあずけて眠りこける姿は、稀薄だった気配をしっかりと肋骨の内に囲い、肌で覆い合わせ、脈打っている。
共に暮らすということ。気の向くままに、人の子に施すには不足、動物に対するには過剰な接触を図り、私の家という閉鎖的な環境に身を置かせ、*にとっては、もしかしたら本来は不自然な習慣を強要して過ごさせている。私という人に心地よいように。自然な姿ではないとしても、置き去りにされるよりかは幸福そうに見える。私に寄りかかる*は弛緩した軀を押し付け、無防備に首筋を晒す。危害を加えられるとは思ってもいないらしい。
六月十五日
梅雨の晴れ間、*の細い毛先に紫陽花色がちらつく。床の上に色紙を散らばして遊ばせた。鶴や紙風船を折るのではない。裂いて遊ぶ。私が最初にそうしたために、野蛮な遊びを覚えた。黴臭い紙である。どう遊んでもかまいやしない。*が遊ぶ色紙の中に手紙も混ぜた。もののついでに裂いてくれたらいい。
*が立ち上がったときに、身の丈が伸びたことに気付いた。私の胸下に頭頂部があったのが、鎖骨に届くようになっていた。どうりで眼が迫って見える。感情を探し度々覗く。差し向けられた眼は食いかかろうとしているかに思えるときがある。しかし大抵、はっきりしたものは何も読み取れない。
七月九日
ここのところ一週間は雨が降り通しだ。庭に面した窓の表面を、ト、ツウ、ト、と水滴が流れる。それを*は飽かず眺めている。水滴を追って徐々に俯き、ゆくすえを追って何度も繰り返す。
しばらくして見れば、暗い廊下で軀を崩し、眼を閉じていた。
九月二十一日
日が暮れて部屋に灯を点したついでに、庭先に出ていた*を室内にいれるために縁側を下りた。庭の隅に背中が見えた。蹲踞まっているだけにしては妙な背中の揺れ方だった。寄ると、*が膨らませた頬を動かしていた。口の端から糸のような細長い脚がひょんと伸びている。私は、何を食べていると声をあげて詰め寄った。怯えがはっきりと見えた。飲み下そうと*の喉が動き、させまいと私はその喉を掴んだ。*の口の周りを脚が踊る。口をこじ開け指を突っ込み、掻き出した。吐き出させて、奥に引っかかっているものを引っ張った。苦しげに喘いでいたが、私は執拗に指で口腔を掻いた。異物を飲みこませるわけにはいかなかった。背に覆いかぶさり羽交い締めにした。鳩尾を圧迫された*が嘔吐く。地面に落ちた塊が、土の上でゆっくりと脚を開いた。それは見覚えのある細長い花糸で、曼珠沙華の花だった。口にいれていいものではないと厳しい声で叱責する私の腕の中で、*は身を固くし涎を垂らしていた。
九月二十三日
相当に怖がらせたと思い知る。咄嗟の行いに本性が表れるという箴言を思い出した。負の衝動に突き動かされた行為の直後ほど情けなく思うことはない。報われたためしがないのに繰り返す。
いつも以上に穏やかに話しかけようとする自分の姿が嘘寂しい。私は*を慰めたいのではなく、自分を慰めたいがために、*に向けて独り言を盛んに呟いている。盛んに発せられる音の元を*は不思議そうに見つめる。声の色合いから意味を捉えようとしているとみえなくもない。理解ができずとも、心は汲まれるだろうか。そうであればどんなによいことか。
九月三十日
喉の潤しに、冷やした水蜜桃に刃を入れる。潰して与えるところを、六つに切った欠片のまま、フォークで刺して*の口元へそっと運んでみた。*は唇で控えめに挟み、すぐにそっぽを向いてしまった。しつこく唇に当てたが最後まで食べようとせず鬱陶しそうに顔を背け続ける。やわらかくなって、果実の表面に滲み出た汁がべたべたと口の周りを汚しただけだった。ひと舐めでもしてくれたのなら、そのままこじ開けることも出来ようが、いつまでも窄めたままだ。潰した水蜜桃は茶色い汁の見目が悪い。上澄みを匙ですくって飲ませる。甘そうに喉を鳴らしたので、私は得意な心持ちになった。*は食後しばらく、きれいにしてやったはずの口の周りを手の甲で擦っていた。
十月五日
屈んで目線を合わせる。首を傾げたのを真似して私も一緒になって首を傾げる。*は唇を擦り合わせ、ぷつぷつと音を鳴らした。そして、くん、と鳴いて背の腕を片方ずつ伸ばした。返事にも聞こえる声のようなもの。鼻を抜けただけの音だ。
節度が曖昧になる。蔑ろにしようとは思わないが、距離を置くべきかもしれない。外見に引き摺られている。もし*が毛むくじゃらの畜生だったならば、私の足元で四六時中じゃれていたとして歯牙にもかけなかっただろう。人の子に似た姿をしているから私が異常な関心を注いでいるように見える。しかし、心配されるほど親密ではない。せいぜい唇を額に当てるまで。慎ましく、世の愛玩動物と飼い主との触れ合いに比べたらよそよそしいくらいだ。
このように不満を綴るのも、友人が私にお伺いを立てるからだ。人肌に飢えてなどいない。独り身が寂しいとは世間の余計なお世話で、人がいなくならなければ日々がこのように平穏であるとは実感できなかった。
十月七日
部屋の奥に蹲踞まる影があった。誰かといってもこの家には私と*しかいない。暗がりでよく見えないが、曲がっており、苦しんでいると察せられた。声をかける。しかし反応がない。まるきり動くことができないほどなのか。肩に手を置いたら、随分と角張っており、誤って肩甲骨に触れたのかと思った。それはすぐに正された。触れているのは、外套が掛けられた椅子だった。深く考えずとも部屋にいることがおかしかったのだ。とうに寝室へ見送った後だったのだから。知っていたはずが、いると信じた……。
押し並べて狭間に存在し、純でも混沌なものでもなく、平衡を保つ、何ものかとして存在する。確かに在ると知るのは稀で、わずかな弾みでより鮮やかで単純なものの形に掻き消されてしまう。知ったとしてそのものを捉えたとは限らない。やがて景色が濁る。ゆっくりと充満し、濁ったとも思われない。
私の目はあちこちへ流れる。流れた先の板間に、鱗が落ちている。薄くて丸い。細かに揺れている。窓の外に植えられている椿の、厚ぼったい葉の隙を抜けてここに落ちてきた。目を細め、見詰めていると拾える気がしてくる。端を摘もうと指を近付ける。木目と窓硝子の間で光っていた鱗は、触る前に私の指に重なり、ただ差しこんできただけの月光に変わる。見ていたはずの鱗はどこにもない。手の形に歪められ、かろやかに、存在しないと訴えてくる。
十月三十日
蒐集家から手紙が届く。写真と数枚の素描が同封されていた。写っていたものは以前に見た人形に似ていたが、決定的に異なる点がひとつ。人の腕がなかった。厚みのある胸が背中へ向けてたくましい双翼となって伸びている。首根の筋が太く発達していた。手紙を詳細に読み進めると、これは頻繁に羽ばたきを行うが、飛ばないという。威嚇するように腰を低く構えている写真があった。下腹部は陰となり暗く、特徴は写真からは読み取れなかった。よく撮れている。
十一月一日
最近は、ほふくが楽しいらしい。廊下でも部屋でも、べったりと腹をつけて移動する。危うく蹴りそうになるので困る。腕も足も硬い床に投げ出して、長椅子や机の下に潜る姿は無邪気だ。家具の下からはみ出た足首を引っ張ると、抵抗して足を引っこめようとする。だらしなく伏せられた背の腕は、私の指先が縁を掠めただけで、さっと折りたたまれる。名を呼べば腕を家具の下から突き出してばたつかせる。軀が凍えると、暖をとりにやってくる。私は毛布を用意しておいてやればいい。
十一月二十日
木枯らしが吹く。日が暮れてから*と出掛けた。腕を掴むことはもうしない。肩も抱かない。放っておく。捕まえておかずとも、大抵私の半歩後ろをついてくる。
細い路地を歩く。街灯が道の終わりを眩ませる。くすんだ灯の下に入ると人の皮を張り替えられるようで、照らされている間、別のものになったように感じる。足元に生える草花は、どこか正気を失っている。道の途中で*がついてきているか振り返る。照らされた明るい空間を挟んださらに向こう側から、こちらへ歩いてきていた。灯の下に*が立つ。人らしい姿が照らし出される。
私と同じ道筋を辿ってやってくる。そのまま私の横を通りすぎた。その後ろ姿を追う。
十一月二十五日
雨を頬にたのしむのもよろしいが、私は濡れるのが嫌いだ。前方をゆく*を抱き上げ、あずまやで雨宿りをした。しかし一度抱き上げるとその日の散歩の間、降りて歩こうとしなくなるのがよくない。やすみ、やすみ、抱え直しながら家路を辿る。
十一月三十日
蒐集家をもてなしていたら、とた、とた、と廊下を歩く音が聞こえてきた。挟まる沈黙。「どなたか……」と蒐集家は小声で言った。私は逡巡し、拾い子ですと伝えた。「おいくつになりますか」との問いかけに、さあと返す。
揃って、軽やかな音の鳴る天井を見上げる。*は往復し、どうやら階段を降りたらしかった。私は席を立ち、扉を開けた。木枠の中に*が収まった。やわらかな服を着せていても、背中の不自然な隆起は見逃されるものではなく、蒐集家の微笑みが硬直した。呼吸を蘇らせるために大げさに肩が上がる。「生きている」と言って蒐集家は嘆息した。
そうだとも、生きている。
十二月七日
手紙を受け取った。
『どうぞお越しください、可能であれば連れ立って』
十二月十三日
訪問への足がけとして明るいうちの散策を試みる。雪がしんしんと降る中を、身を寄せ合い歩く。牡丹雪が、人々の目から私たちを隠す。仄白い景色の中、傘の内側は静寂を保っている。幾人もすれ違った。誰もが傘の内側に身を隠している。私たちと同じように。
懸念していた動揺もなく、*は私に抱き寄せられるまま歩いた。深く被せた毛糸の帽子の下から時折不安げに私を見上げてきたが、わかったようにさすってやると背の緊張を解き、しなだれかかってきた。
家に帰り着く頃は雪深く、足元の悪さにいよいよ*は歩き疲れうんざりしてきている様子だった。軀に腿を絡めてこられると鬱陶しい。しっ、と諌める。思うように甘えさせなかったので、*はやや機嫌が悪い。
十二月十四日
庭先、雪の白さ。枯れ枝が糖衣を着る。ふくよかな雪が、月光を廊下へ誘い撒く。手入れのされなくなった部屋は、埃をかぶって朽ちている。庭の木が生い茂り、壁や窓を蔦が覆う。昼夜問わず暗い部屋の中を、*が食べものを求めうろつくが、ひっくり返した引き出しに中身はない。花やわずかに実った種を齧り凌ぐ。
十二月二十日
午後二時。*を連れて蒐集家の邸宅へ。迎えに現れた蒐集家は、紺色の羽織に燈色の紐を結んでいた。蒐集家はけっして出会い頭に過剰な関心を*へ注ぐことはしなかった。心待ちにしていた色がありありと、口髭が震えていたが、あくまでも私の来訪を歓迎する態度を崩さず、少々過剰なくらい神経を使って視線を遣らないようにしているようだった。私が携えてきた逸品として丁重なもてなしをしてくださった。
*の背を押して蒐集家への挨拶を促したが、*は爪先を張って抵抗した。
蒐集家とその夫人の元には子がいない。蒐集家は、子というのはなかなか思うようにできるものではなく、妻は自分の子をもつよりも、人形遊びをしているほうが幸せそうにする女だ、といつだか口にした。
私の傍から*は離れようとしなかった。蒐集家と夫人から隠れるように、私の背と椅子の間に身を折りたたもうと尽力していた。夫人はそのように露骨に拒絶の色を示す姿にも寛大で、「可愛らしい」と言って目を留めた。蒐集家は写真を撮ろうと勧めてきた。おそらくその写真は私の手元にだけ置かれるものではないだろう。慰みにさせたくはない。必要のないことだ。
長いこと話していたので、私が気付いたときには*の裾からのぞく背の腕は石のように強張っていた。さすると苛々したように小刻みにゆらす。暴れ回らないあたりが、意外にも辛抱強い。蒐集家は*の腕に関心が強く、触ってみてもよいだろうかと控えめな口調で申し出てきた。*は今日まで私以外に触れられたことがない。私は服の裾をまくり、腕の先だけを晒させた。蒐集家は息を詰めて手を伸ばし、背の腕の先端を手のひらでまるく包んだ。私の背中と椅子の間に隠れようとしていた*は、触れられた瞬間に凍りついた。「かつては」と蒐集家は言いかけ、口を噤んだ。憐れみに満ちた嘆息。夫人が「今だって、そうでしょう」と穏やかに言った。「そうかもしれないが」と蒐集家は*の腕を見つめた。私と夫人の視線も、蒐集家の手の中へ注がれた。
かつての姿を誰も知らない。しかし……。見えない形を針で留める。その腕には名残がある。露出した骨筋からたくましい躍動を想像するのは困難であったとしても、際立った特徴がかつての能力を示す。失われたのは力による表現だ。
触られ続けて*は放心状態に陥った。生気の抜け落ちた軀。恐怖や苛立ちを認めらなかったせいで、自らの感覚への不信を煽り、抑圧、無気力へとなだれこんだのだ。
帰り際、夫人からゆったりとした繕いの衣類を差し出された。「似合うのではないかしら」と言って広げて見せてくれた。着せるものは間に合っている。それにふんだんにひだをしつらえた一着は、夫人の愛する人形のために繕われたもののはずだ。夫人の半歩後ろに立つ蒐集家の眉がわずかに下がった。貰ってやってくれないか、と私には聞こえた。
夜道を*は私から少しだけ離れて歩いた。肩を落として項垂れていた。どうやら信頼をいくらか失ったらしい。
一月一日
霜柱が土の下で光っていた。枯れてくすんだ色の苔が石臼を囲んでいる。陽が窓から差しこみ床を照らそうとも、部屋が常に暗く感じられる。誰も入ろうとせず、用をもたない部屋に誰かが佇んでいる気がする。そういえば時折、*も私のように空き部屋を覗いていた。窓辺の布が揺れて見えた。風のせいではない。
一月七日
背中の対の腕が私と*を分断し、異種の、交わることのない軀であると言い放つ。度々*は私の背中の瘤──肩甲骨に手のひらを当てる。まるで私にあるべきものが欠けてしまっていると言いたげに。そして自分の背にある腕を隠すようにたたむ。その縮こまらせた腕を、私は根本から無理を強いて開かせる。皮膚の奥、骨筋の曲線を揉みほぐす。一対の腕を落とせば人に迎合できようとも、同じであることを私は求めていない。
一月二十日
久しぶりに裏戸が叩かれた。「雛はどうなった」と言って友人が顔を見せた。よく覚えているものだ。
友人を居間へ通し、*を探した。*は寝床で眠っていた。私が戻ると、友人は黙って腰を浮かせた。自室へと案内する。寝床の中を見せると友人は蒼白になり、続けて頬を赤らめた。私は毛布の上から二対の腕を順に指差した。授かりものだと私は言った。友人は自分の唇に指先を当て、「そうだろうとも」と呟いた。そして震えわななく唇を噛んで合掌し、踵を返した。
二月二日
境界はどこに引かれているか。隔てられた家の壁に、人の間に、死者の軀に、見えざるものに、枠を外れ知覚の及ばぬあれらの存在に。境界の縁はない。存在しない場所を私は探している。信じるとは存在しない私が感じている響きのようなものだ。万人が許容することを必要としない。ただ感じられるだけのもの。
許容を示されることは、幸福な生の形のひとつだ。私たちはもともと分離された存在ではなかった。厳密にいえば現在も離されていないだろう。佇まいはかつての私たちを呼ぶ。懐かしさを小脇に抱え、帰属意識をくすぐる。私たちには拒絶が付きまとう。朽ちたとしても、同一になるとは限らない。私たちをとりまく、あらゆる私たちを、いつ、私たちと思えるだろうか。『私』がいる限り、そのときはこない。
二月二十四日
もし今ある形から変わったならば。均衡を保ち、人という型におさまっている姿を、どこからでもいい、内臓からでも爪先からでも崩したのならば、私であった破片は私から脱して風景に溶けこむ。私が知覚できない私が風に吹かれる。あるいは箒で掃かれ屑かごの中へ溜めこまれる。巡り巡って、誰かの口に触れることもある。それはもう私ではないが、形あるものは崩れ去るのだから、いずれ私に還る。抱くのは親近感と、なぜ隔てられたのかという疑問だ。『あなた』は私ではないというまなざし。個々のものが放っている形というもの。『あなた』は私になりそこなった私だ。私は『あなた』になりそこなった。欠けているのは形であって、なだらかに満ち足りているのを、日々に感じられる瞬間はあったろうか。
二月二十八日
夜の川辺にて、粘着質に照る墨色の流れを眺める。時折水面を突き破るものがある。魚の背だ。濡れた皮膚を突き破る肝。捩れ、疼く。耐えきれず、身を掻きむしる。
三月四日
「ずっとあそこにいるけれども大丈夫なのか」と長椅子に座る友人が首を捻る。部屋の隅に座っている*を見遣った。好きであの場所にいるのだ。このままでいい。
*と会わせたら友人の足が遠のくかもしれないと考えていた。しかし実際はその逆で、私たちは熱心に交流している。
部屋の角で*は葛藤しているようだった。私に眼を留め、友人に眼を留め、双眸がちろちろと揺れる。もどかしげに腹の前で拳を丸めている。私の方へ歩いて来そうに思われた。しかし*は閊え、その場に蹲踞まった。ひゅう、と細い嗄れた声が発せられた。「大丈夫なのか」と友人が繰り返す。「自分の子があのような様子なら駆け寄るものだよ。」私は肩を竦めて、他人の子にはそれをしないのかと言った。「出る幕じゃない」と友人が言う。*は私たちが言葉を交わすあいだも、変わらず堪えるような息を漏らしていた。悲痛な響きだった。聞くに耐えない。
私は名を呼んだ。魔術めいた効果があった。*はぴたりと鳴き止むと、暗い眼を据え、友人を大きく迂回し、私の背後に回った。やがて背中へ額の当たる感触があった。友人は「かわいそうに」と呟いた。
三月十二日
自身と仲よくやっていた時期は、寝ても覚めてもお喋りをしたものだ。誰と話すよりも安らぎを得られた。しかしいつ頃からか、少しずつ口を塞ぐことに慣れさせて、土に埋めてしまった。今その場所で芽吹くものがある。
アあと異質な音が沈黙を裂いた。醒めて素早く目を動かした先に、輪郭をもった暗がりがあった。それは、くつくつ、くうくう、と喉を鳴らしていた。
発される声に逐一返事をする。応酬がとまらない。言葉を交わさずに、会話と同等のやりとりをしている。むしろ言葉を使わないからこそ、このたのしみはあるのかもしれない。
四月二日
短い舌が口腔でまろやかに蠢く。発声を教えるように、*の手を私の喉に押し当てる。『あなた。』冷たい手だ。指が絡まる。
四月二十日
二階の部屋にいた。窓辺に立ち、庭を覗いていた。ここは祠の前に立つ人がよく見える。開け放した窓に風が吹きこんできた。甘い香りがする。*が側にやってきた。肩を抱く。陽光が深い穴の底に吸い込まれる。眩しいだろうに、どんな用で私の元に寄ってきたのか。
庭を共に眺める。まもなく、背後に視線を感じた。振り返りざま、私は*を背に隠しながら窓の外へ押した。飛んで逃げておくれ、と。*は墜落した。腕を広げることすらままならずに。
喪失感と共に目が醒めた。
五月六日
他者は勝手に存在を喫する。それぞれに魂の廟があり、背に還る威信をもちながら、供するは八百万の存在である。あらゆる自己表現の方法が与えられ、火花を散らす。ひとつ存在として組みこまれながら個の静寂を保ち、限られた交わりの点を愛と呼ぶ。
五月八日
そのまなざしに畏怖の念を抱く私を、どうか許してほしい。
五月十五日
毛布を巻きこんで胎児のように丸くなっていた*が呻いたので、顔を覗きこんだ。閉じたまぶたの目頭に涙が滲んでいた。びくん、と腕を痙攣させ眼を開けた*は何度かまばたきをした。涙をまつげで弾くと、私の視線から逃れるように顔を背け、さらに厚く毛布にくるまった。隔絶されたところへ行ってしまった*の心象は計り知れない。
関わりを保っていられることは、それだけで幸運なことだと思える。望んでもうけたものではなくとも、少なからず軀はここにある。
六月十四日
伏せたままにしていた読みかけの本がなくなっていた。探してみれば、居間の床に座りこんだ*の膝の上に乗っている。本を開き、俯いていた。読んでいるのかと興味深く扉の影から見つめていると、*の眼は頁に落とされているものの、どうやら文字を追っているわけではなさそうだった。漫然と眺めているだけらしい。頁がめくられると同時に、小さく、ぽっと口が開く。
取られてしまったからには仕方がない。その本を読むことは諦め、*に譲ることにした。
六月三十日
退屈で澱んでいるように思える私との暮らしは、日々が安寧であることに価値が置かれ、いろどりといえば光、雨、風、囀りに声。過去の現象が、ゆっくりと遅れて到着する。
呼びつける声は*を長くは惹き留められない。
七月二十日
耳を傾けたときに、沈黙に聴く騒々しさ。
わずかな衣擦れや、ふいに吐き出された深い息。諸々の欲求を*は唇を擦り合わせ満たす。
七月十一日
このところ数年見かけていないが、庭に狸が出入りしていた頃があった。鴨の親子も。野生のきまぐれか、それとも縄張りを張られて近寄らなくなったのか。
見なくなったとはいえ相変わらず祠の供物は齧られていたり、持ち去られていたりする。
十二月九日
腕をあちこちにぶつけて歩く。柱に擦り付けてむずかる。青痣が腕に、引っ掻いた痕もある。眺めるも無惨な細長いみみずばれの茎、糜爛の花。
十一月二十日
とんぱたり、とんとんぱた。窓が叩かれる。床が軋む。天井で弾む。羽根をもつ生きものの軽薄な音だ。そこかしこに聞こえる。うたた寝に心地よい。にぎやかさに口元が綻ぶが、目覚めて気付いた。雨脚は踊り狂い、追っていたはずの恋しい足音はとうに消えていた。
十一月二十三日
気が塞ぐ日が続いていたのもあって、久しぶりだねと口にした私の声色は予想外に冷淡に響いた。友人は、黙って考えこみ、おもむろに口を開いたが、また閉じて、苦しげに息を吐きながら微笑んだ。おやさしいこと。他にこのような人はいない。
一月十三日
正午から雪が降った。庭に出た*は数分もしない間に頭や肩にうす化粧をほどこされ、南天を折って戻ってきた。
十数年前も似た光景を見たような、もう随分と前から知っている光景が目の前に繰り出されたような心地がした。手渡された南天が何故か懐かしい。
雪に隔たれて黙す。このあたりの家々は人が住んでいるのか疑いたくなるほど気配が感じられない。日が暮れ、塀や柵に囲まれた家の窓のひとつに黄色い灯が点っているのを見つけるまでは、人が住んでいることを忘れる。私もまた姿のない住人として同じ灯を点す。
私の血縁者はみな西方へ向かい去った。友人は「この家は鈴鳴りがする」と柏手を打って面白がる。
二月二日
私の腰元に寄り添う*の姿は、ときにすれ違う人の面をほころばせる。
しかし*の布がめくられたときにその人に湧く感情はいかなるものか、いつも考える。憐れみか、変わらず柔和でありえるか。無自覚に築いた妄想が壊されるとき、人は*の近くにいられないだろう。
二月五日
そのようなはずはないと頭を振る。*が、にま、と笑むように見えた。わらうはずがない。理由もなしに微笑をもって挨拶を交わすのは人の習わしであって、私と*の交流ではない。ではなぜ口を半分開けたようにするのか。そしてそれを私はわらったと思って心を揺さぶられるのか。
*が家中を飛び回って駆ける。庭へ出してやるのが心配になるほどだ。もしそのまま飛び立つなら、ここを一瞬で見失うだろう。とはいえ風を捉える羽根を持ち合わせていないのだから遠くへはゆけまい。遠くへは……遠くへゆけた方がいい。飛んだ先には懐かしむべき場所があるのかもしれない。私が知るより以前の、軀が覚えているところへ。懐かしさ。子供の頃に抱いていた。生まれも育ちも、この地であるけれども、家へ帰る度にここではない懐かしい場所へ思い馳せていた。あるはずもない場所が懐かしく、自分はそこから遠い場所へ身を置いている気がしていた。幾年も経つ。見知らぬ園の妄想は消えた。あるのは地続きの、まだ触れていないだけの世だ。現実と妄想の区別をつけるようになったのではない。現実だろうが妄想だろうが、それを共有している、ともっともらしい振る舞いを身に付け、言語のみならず、誰とでも世が同じだと信じることがうまくなっただけだ。騙し騙されているとは違う。同じ現実と幻想を共有したつもりになっている。
二月二十八日
同じものを信じているという前提に頼って行動を共にする危うさ。あそびのなさが首を絞める。軀のつくりは外界に真っ先に触れる感覚の境界線で、感情が発生する境界でもある。似通ったものが傍にいないがために、私たちは孤独だ。
笑みを積極的に示すようにしてから、心なしか*が私の顔を注視する時間が長くなったように思う。今までも*の前で笑みを浮かべることはあったが、それは口の端を小さく引き上げただけで、声をあげる姿は見せていなかった。
今日は花瓶に挿していた蝋梅の枝を*が振り回し歩きながら持ってきた。持ってきたというよりか、持った状態で私の近くを通りがかった、ということだったかもしれない。水滴と蕾が点々と*の背後の廊下に散らばっている。はたと視線が交わり、私はすかさず手のひらを差し出した。渡せ、と半ば強要された*は、束の間棒立ちになっていたが、やがて枝を握っていた拳をゆるめた。蝋梅を受け取る。頭を撫でてやった。かざした手が触れるとき、*は眼を細める。さも恍惚として接触を受け入れているようで幸福そうに見えるのを、私は快く感じている。口角を絞って微笑みかける。推し量れない感情を*は胸の内に蓄えており、ただ表現の遣りようがないのだ、と思いたい。
三月十四日
硝子の小鉢を盆に載せた夫人が姿を現す。小鉢には苺が盛られていた。銀の壺も並べられている。蒐集家は小鉢を受け取ると、カーテンのふくらみに目配せをして「召し上がるかな」と小粒で真っ赤な苺を匙の背で潰した。「グラニュ糖は」と夫人が壺の蓋を開け、苺にまぶした。蒐集家は小鉢を持ち、おそるおそる*へ寄った。夫人がわらう。「あの人、手懐けたくて必死なの。」*はカーテンの裏から出てこない。蒐集家はあと数歩というところで諦め、戻ってきた。「嫌がられてしまったよ」と眉尻を下げている。夫人はやさしい声で「怯えているのではなくて?」と蒐集家を責めた。「怖がらせるつもりはないのだがね」と肩をすくめた蒐集家に、「いいえ、あなたのこと。手が震えているじゃない」と夫人は言う。
私は小鉢を預かり、*の傍に寄り腰を下ろした。カーテンが揺れる。*の喉が鳴る。床に小鉢と匙を置いた。そのときは口にするふうでもなかったが、帰り際には甘酸っぱい香りをすっかり自分の土産にしていた。
四月九日
眠る。見知らぬ街の屋根の上を飛び渡って歩く。宙で腰を捻って地上を眺める。軀はあたたかく重い。重いが、浮く。地上へ引っ張られている感覚を残したまま、太くなめらかな帯にもちあげられるようだ。その逆に、意識は沈んでゆく。くるりくるりと回りながら、誰にも気付かれずに浮いている。眼下に広がる世界をただそこにあるものとして感じていた。
人が地上を歩いている。霧がかかった姿で、あちこちへと散らばる。鋭敏だった感覚が流れて、全てが通り過ぎてゆく。何かが去ってゆくのはわかる。しかし、それが何なのか感じとることができない。軀がない。触れることも、考えることも、かつての記憶を道標にした虚構だ。
幸福かもしれない。不快なものかもわからないがゆえに、満ち足りている。なにもかも置き去りに、それでも、消えてはいない。醒めた夢の中で、美しいとも醜いとも思えない世にいる。
五月十五日
燕の巣の真下に雛が落ちていた。私が拾うより先に*が片手でその毛束を掴んだ。*は握り拳のにおいを嗅ぎ、拳からはみ出た、まだ鞘の残っている細い羽根の感触を確かめていた。そこまではよかったが、おもむろに口にいれようとした。例の如く私の手が先に出た。拳を遠ざけさせたが、*は余程心奪われていたのか遠ざけられてもなお口元を近寄せようとする。仕方なく、片手で*の口を覆った。蓋をされた口が指の下でやわらかく動く。食いたげな口に指が捕まった。湿った肉に揉みしだかれる。*の眼が細められた。真剣な咀嚼が始まる。短い舌で指を転がし、片頬で捏ね、鉤型に曲げられた蠢く指にさらに真剣に吸い付き、ほぐして呑みくだそうとする。快とも不快とも言いがたい。手元への注意が疎かになったところで雛を救った。乱暴に手篭められていたはずだが、私の肝ほどは潰れていなかった。
食われる経験をしたのは初めてだ。吐き出すならいい。しかしいつまでも私の指を喉の奥に押しやろうとしていたあたり、食えないものへの判断がお粗末ではないか。もし飲みこめたなら消化できなくもないだろうから、全てが誤りと限らずとしても。
六月七日
輝くもの。眼。多くの光を映し反射するので、その双眸を覗く者に、そこに存在しないものすら見たような気にさせる。五感に得たという、度を越した意識の膨張。破裂するとき、沈黙が訪れる。緊張がちりぢりになる。何かが確実に反応を露わにした一瞬は知る前に失せ、のちに記憶を手繰るころ、空白に違和感を覚えない。半透明。不明瞭。輪郭が散る。ぼんやりとしたものが実際より美しく、醜く、姿を包む。霊応が五感を差し向ける。一度でも息の吹きかかったものが発する波。喧しさ。溜息がでる。放っておくことはやさしさではないのか。放られていることは安寧ではあるまいか。
執着して口にする言葉は、眼の前に現れる生命に及ばない。あたたかみも、滑稽さも、いずれもありはしない。ただの音の連なり。言葉に意味をもたせるのは己ではない。言葉は、示した瞬間から歪められた事実として残る。五感で受け取ったものを示すことは難しい。この感覚は己以外のなにものも信じられるものではない。精神の土壌。たとえ声の抑揚から言葉の意味を汲み取れたとして、言葉が一方を指し示しているなら、真意は隠れる。音は降りつもり、繰り返される。真意は蓄えた軀の形で響く。
七月二十三日
夜更けに顔を見せた*に、まだ起きていたのかと声をかける。丸っこい眼で私の顔を見、ふらりと横を通り過ぎていった。
やがて別室から重たげな物を引きずる音がした。虫の鳴く夜には不遠慮な地響きが徐々にこちらへ向かってくる。音の正体は椅子と*だった。投げやりな扱いだ。どこへ持ってゆく気か見届けるつもりで黙っていると、椅子は私にぶつかり、その場にしかと据えられた。*は椅子に腰掛け、前屈みになり両腿へ肘を立てた。それは私と同じ体勢だった。なんだ、真似っこと言うと、*の口がもごつく。小鳥のように首が左右に傾く。私が背もたれに仰反り腹の上で手を組むと、*は自分も背もたれに軀をあずけた。背の腕の居心地が悪かったのか、余計に仰け反り、椅子から落ちそうな、斜に構えた崩れかけの姿で居を定めた。ひとまずは納得したらしかった。こちらを意識してやっているのは明らかで、悪戯めいていた。
八月六日
湯浴み。石鹼をこすりつけ洗い流してやる。背の腕に、硬く芯のある細い鞘のような手触りがある。度々、軀を触っていて、筋張っているとは思っていた。見た目には目立たない。皮膚の下に埋もれており、凝り固まった筋肉とも違う、ささくれたようなしこりだ。弄られるのを嫌がり、それとなく腕を逃そうとするので深追いはしていない。
九月十九日
虫の音を聞く。彼らの唄の意味を知れる身でなくてよかったと思う。
祖父の竹籠を思い出す。唐紅色の房を結んだ竹籠に、丸い翅を重ねた鈴虫を飼っていた。虫は細い竹の網目の向こうで、りんりん鳴いていた。金属の声をもつ虫らは、蟹股のむっちりと厚みのある腿をしていた。
風流だ、と竹籠を指して誰かが言った気がする。それが身内の者だったか、訪問客だったか覚えていない。だが祖父がその声に応えて鳴らした喉のわらいは、慈しみと、わずかに侮蔑のいろが含まれていた。あの喉が私にも備わっている。
十月一日
すすきがそよぐ。近くに、遠くに、人並みに景色の中にまぎれる。ひとりというのは、苦しくも寂しくもなく、人以外のあまりに多くのものと繋がっているので、ときには散乱した色々なものをまとめておく結び目が必要だ。そうでなければ生はとめどなく、死もまた区切りがない。
十月十日
友人は画帖を開いて*の前に座り、絵筆を振ってみせた。筆の柄で*の手をやさしく叩く。*の手は膝の上に置かれたまま、動かない。無感動な指先に筆が引っかかる。友人はその指先を振り落とさないよう、そっと筆に青色の絵の具を含ませ、画帖にゆっくり塗り広げた。
一面が青く滲んでゆくのを、*は首を傾け片眼で見ていた。筆は二人のどちらにもなびく気のない顔で画帖の上を滑る。青い染みが丸い形を成しかけたところで、友人は手を放した。止まった穂先がひしゃげ、紙が深く色づく。友人は*に画帖を預け、鞄からもう一冊、取り出して私に向けて開いた。私は鉛筆を握った。紙に芯の先を置く。どちらへ走らせようか。ぼんやりしていた私の隣に、筆が転がってきた。*がこちらに身を乗り出していた。私が手にしている鉛筆を拳ごと握り、紙にべったり押しつけた。黒鉛が欠ける。掠れた灰色の線が並んで描かれた。
十一月二十一日
こちらに背を向けた*が部屋の隅に蹲踞まっていた。頭が揺れている。粘りを帯びて擦れ合うような水の音が、私の耳を舐った。扉を手の甲で叩き、ここに立って居ることを訴える。*が振り返る。気味の悪い音が消えた。
襟が着崩れている。折り目正しさの影もない。*は袖の内から、ぬらついた塊を差し出した。粒と、裂けた繊維が指の間にこぼれるほど光っている。襟、袖、腹まで汚して貪っていたらしい。ひとにぎりの果肉はみずみずしく、痙攣していた。
十一月三十日
手を見つめる。自分の手が、まるで他人のように思われる。
自分というのは最も近くにいるようで、他人と同じ存在だ。自分が他人であるのだから、自分以外の人などはもう、人かどうかも怪しいものだ。
信じているから存在するのかもしれない。目を閉じ、耳を塞ぎ、感じられるのは隔絶された*がそこにいるということだった。
深くこもった音色が淡く届く。雑多に伝わってくるはずの、人らしい音がない。過去から響いてくる音を聞いている。ざらつき、不自然に途切れる。不完全で安定しない。左から聞こえていた旋律が背後に回り、右へゆったり流れる。やがて前方へ。そして左へ。周遊する。輪になった旋律の中央で立ち尽くす。どこにもゆけない。奏でられている場所は存在しない。そこには誰もいない。私を知らず、また私も知らないなにものかが、これといった軀を持たず漂っている。漫然と、無頓着に、翻る。鈍く光る。それが何であったのか……滔々と関係を満たすはずだった時間が、私には流れていない。背の腕が開かれる。歪に軋むその異音の美しさは、私の望みだった。
全ては重なり、なにものでもない潮流へ溶けてゆく。ひとつにはならない。離れた場所で立ち佇み、やがて消える。
人はこれを、さようなら、というのかもしれない。自分たちには、感じられなくなってしまったので。