2025



01.01
 身の回りが静かであることにしみじみと幸せを感じる。聞こえる音といえば、冷蔵庫のモーター音くらいだ。あまり語ることがない。これもまた幸福なことだ。



01.29
 世の中の人は、お喋りと食事を器用に両立させているように見える。
 私は料理に注意を向けるとカトラリーを口に運ぶまでの手の動かし方や料理の色・風味に気を取られて会話をおろそかにしてしまうし、かといって会話を気にすると皿の上で無駄な動きが増えて食べ物の味が分からなくなる。ちょうどいい塩梅がなく、どちらかが犠牲になる。だから不味いものでも「おいしい」と言うし、おいしいものでもろくに味わわずに飲み込んで何を食べたか忘れる。
 たちの悪いことに、会話をしていなくても私の頭の中には花が咲いているので、黙っていても味に集中していないという時がままある。頭の中の花は全く深刻なことはなく、道端の、ぺんぺん草くらいの面白い花だ。たまにこのぺんぺん草を目の前の相手に渡せそうな機会がやってくる。私と食事を共にする者が一本のぺんぺん草を喜ぶ相手ならいいが、そうでなければ全く面白くないだろう。大抵の人は私の脳内のぺんぺん草に理解を示してくれるものの、相手の笑顔を引き出そうとすれば私はぺんぺん草を百本の束にして振り回さなければならない。百本も束ねたら、それはぺんぺんどころではない。デンデンとかダンとかドンとか、別の草である。



02.12
 学生の頃の思い出。
 修学旅行で、消灯後にお喋りがはじまった。
 同級生たちは賑やかで優しかった。どのような内容でもいいから、暴露話をするということで、教室でほとんど喋ったことがない私のことも仲間にいれてくれた。
 一人目が話したのは、好きな子のことだった。
 二人目が話したのは、はじめて恋をした漫画のキャラクターのことだった。
 三人目が話したのは、漫画に影響されて自分には超能力があると信じ、能力もないのにそれらしい態度をとっていたことがあるということだった。
 四人目が話したのは、本物の霊感があるらしい祖母のことだった。
 そして五人目。私の番だった。
 これといって話すことが思い浮かばず、困った。しかし黙ったままではいられない。せっかく楽しげにしているところに水を差すことになってしまう。そこで四人目が披露した心霊話に則って、話を捏造することにした。
「あまり見ないほうがいいと思うんだけど、この部屋の天井の換気口、ちょくちょく誰かがさ、指を突き出してきているよね。みんながいないときに、ふと天井を見上げたら、グリグリ動いていたよ。さっきも……」
 ぎゃあっとあがった悲鳴は、笑い混じりの愉快なものだった。いささか話を装飾しすぎた気もしたが、夜の特別な空気が私を助けてくれた。怖がりすぎた者は面白おかしくからかわれた。
 そこからは怪談話に花が咲いた。見回りのために部屋を覗いた教師の
「寝なさい」
 と言う低い声も効果的な舞台装置となる。
 でっちあげが功を奏し、楽しい雰囲気を壊さずに済んだことに、私は胸をなでおろした。
 翌日の夜、夕飯前の自由時間に部屋へ行くと、昨晩枕を並べた生徒が珍しくひとりぼっちでいた。私は
「そろそろ食堂に行かないと」
 と誘ったが
「うん……」
 と煮え切らない返事だ。その子はチラと天井を見上げた。私も見上げた。
 換気口から静かに空気が流れる音が聞こえる。
 その子は上を向いたまま
「あそこ……」
 と呟いた。声が震えていた。
 昨晩の私の作り話のせいだと思った。下手に怖がらせてしまったことを反省し、本当のことを話そうと心に決め、息を深く吸った。
 しかし私が話を切り出すより先に、その子はまばたきひとつせずに言った。
「やっぱり、いるかぁ」



03.25
 音楽に聴き入っている集団には生きた人間らしさがない。個性の欠如はいわずもがな。あの統率された個はおそろしい。音楽は人間の今この瞬間を支配する。音楽が右を向けば右、左を向けば左、そのように煽られていることに、まるで無自覚のように見えるあの恍惚とした表情。鼓動を掌握する魔物に対峙し無防備に捕食されることに没頭するグロテスクさよ。



05.31
 胃が痛い。今まで全く手をださなかったものに手を出したからだ。
 唐辛子醤油の煎餅。
 これが旨くて、齧り始めると止まらない。バリバリと食らい、すぐ「もうあと一欠片しか残っていない……」いっそ何袋かいっぺんに買ってしまおうか。
 旨くて旨くてすっかり虜になっているわけだが、もともと私の胃は貧弱で、刺激物という刺激物の消化に向いていない。たまねぎも胃が悪くなるし、揚げ物も胃にもたれる。少しのストレスで刺すような痛みを発し、もし傷まないにしてもドクッと引っくり返るくらいのことはする。体を悪くしてはいけないと思うものの、濃い醤油と辛みのコクがしみた極めて堅い煎餅に私はあらがえない。今、時刻は二十三時を示している。ぺしゃんこに伸された袋を見詰め、切ない気持ちで明日が来るのを楽しみにしている。



06.05
 イギリスに対して、日本と同じ島国だというところに私はやけに親近感を覚えているのだが、どうも人の気質というか、超自然的な力の扱いは異なるように思う。イギリスが剣と魔法の国だというのなら、日本は刀とまじないの国で、使う道具を並べるなら、杖(英)と札(日)だろうか。
 魔力の扱いについて、杖は向けた先に作用する。エネルギーは自分の内部にある。札は自然から力を授かり、別のものに作用させている。エネルギーは自分の外部にあり、自分の体は媒介だ。
 ところで人間は鳥のように飛ぶことはできず、体ひとつで出来るのは水平方向への移動である。飛ぶ・浮くといったことは、人間は鳥や虫、ふわふわの綿毛ではないので、搭載されてはいない。できないことには神秘や聖を感じる。天から飛来するものは人間ではないし、授けられるものは上から下へ贈られる。
 魔法は水平の不思議な力で、まじないは垂直の不思議な力なのかもしれない。自然を制圧できるかできないか(実際に可能かは別として、前提としている意識やとっかかる姿勢の違い)の違いがあるような気がする。
 こういうことは、例をだしなさい&論理的に書きなさいとなるべきところだが、なんだか面倒くさいので、「なんとなく思った」でやめておく。全てが信用のならない所感である。



06.13
 仏僧が着る三衣のうち安陀会(あんだえ)は、古来では下着にあたるものを指していたと知って、「アンダーうエぁ……」と、恵比寿顔で呟いた。