唐傘



 二〇五号室の住人は傘の収集家だった。角部屋であるこの部屋の玄関前の欄干には、大量の傘がかけられている。かけるだけでは足らず、バケツの傘立てが八つ並んでいる。どれも満杯で、挿した傘の隙間にさらに傘が挿され、その束は五尺に達した。小さな子どもであれば、影にすっかり隠れられる大きさだった。
 傘のコレクションは無秩序だった。折れたぼろのビニル傘もあれば、手元の部分に猫や兎、白鳥の頭が象られた細身の上質な傘もあった。全て何処からか拾うか盗んできたらしい。集めることだけが目的なのか、保管はぞんざいだった。
 コレクターの部屋の二つ隣、二〇三号室に住む目堂雅巳は、夕飯の買い物に行こうと玄関を出た。欄干に寄り、空模様を見た。どんよりと暗く、厚い雲に覆われている。じっとりと重い空気の中に、ときおり冷たい風が吹いている。ひと雨降りそうだった。
 傘を取りに家の中へ戻ろうと身を翻したとき、二〇五号室の前の欄干に、妙に膨らんだ芥子色の傘が引っかかっていることに目堂は気付いた。
 それは傘、且つ逆さの人間の足だった。裸足で脛毛が生えている。足の甲を使って器用に引っかかっている。筋肉質で、ふくらはぎが張っていた。若くはない。中年男性の足だった。
 近くで見ると、傘は足の指を擦り合わせていた。居心地が悪そうだった。欄干に引っかかり続けるために筋肉を酷使し、疲れているように見えた。
 他人の傘である。手に取るのは憚られた。目堂は何をすることもなく、外階段を下りた。
 路地に出たところで目堂は立ち止まった。心残りだった。どうしてもあの傘が気になる。甲羅が裏返って力尽きそうな亀を見たときと同じ気分だった。放っておいてもどうにかなるとも思うが、しかし見てしまった。そしてその姿に哀れみを感じた。ならばやはり、為すことはひとつである。
 目堂は二階に戻った。傘はまだ足を緊張させて引っかかっていた。目堂は掴むことを躊躇った。初対面の素足に触るのは失礼な気がした。目堂は生地の部分をわし掴みにした。
 骨太だった。片手で持ちきれない。血のかよった男の太ももが生地の奥に感じられた。片足の傘は重かった。
 欄干から外された傘は、足の指をぎゅっと丸め、ゆっくり広げた。寛いだようだ。目堂は傘を小脇に抱えることにした。傘はそっと膝裏を曲げ、目堂に身を預けてきた。
 外階段を下りた横に、ツツジの低木がある。目堂は、傘の足裏が地面につくよう、ひっくり返してツツジに寄りかからせようとした。すると傘はふくらはぎを漲らせ、まっすぐ立った。
「ごきげんよう」
 と言って目堂は後退り、傘に背を向けた。自分の傘を携えることを忘れたまま出掛けた目堂は、その後土砂降りの雨に晒され、あの傘が迎えにくることもなく、濡れそぼって風邪をひいた。