夫婦
未だこの世で手紙を受け取るとは思わなかった。それも用件は結婚の報告である。差出人は、目堂雅巳が怪奇倶楽部を脱退した後もふらりふらりと付き合いのあった後輩だった。彼は数年前から音信不通になっていたため、驚きは二重だった。住所を教えた覚えがないことを思うと、三重になる。
郵便受けに投函されていた手紙には、『目堂雅巳殿』とだけ書かれていた。表にも裏にも、住所が書かれていない。郵便受けに直接、投函されたらしい。奇妙ではあったが、目堂は手紙の筆跡を信じた。これは本人であるに間違いない。少しくらいの不審な演出は、怪奇倶楽部の会員であるならば、趣向の範疇だろう。そう納得しなければ、文面からひしひしと伝わってくる喜びに満ちた婚姻に水を差す気がした。
式は花嫁と二人だけで挙げたという。積もる話があるので、ぜひ一度、我が家に来てくれないか、とも書かれている。縁あってのことだ。断る由もない。
手紙の二枚目に、手書きの地図が添えられていた。いつ来てもよいという言葉に甘え、目堂は後輩に知らせずに訪ねることにした。
「ご無沙汰しております」
と後輩は目堂を喜んで迎えた。後輩の姿は目堂の記憶にある姿から豹変していた。もともと虚弱で、霊や怪物に端から取り憑かれそうな男だったが、今の姿からはそのような姿は想像もできない。快活な笑顔に、着物の羽織を重ね着しても分かる肩の厚さ、地を踏みしめる両足の確かさは、世にしっかりと根を下ろして暮らす、実直で健康な人間であることを眩いほど顕示していた。
一方で、後輩の眩さとは裏腹に、屋敷はそこはかとなく暗かった。真昼であるし、日差しも窓を通してはいってくるが、広い屋敷に対して人の気配がなく、活気が感じられない。鏡面のように艶めく廊下は手入れがゆきとどいているが、居間(と後輩が言った部屋)に通される際に見た、母屋とはなれ座敷を繋いでいるらしい廊下は、定規でも引いたかのように埃が積もっていた。廊下のあちらとこちらを神経質に区切って見えた。使用していない部屋は掃除をしないのだとしたら、合理的だがしかし、かつての後輩の性格を鑑みると、見える場所に埃が積もっているというのは妙だった。後輩はあらゆる怪異から身を守るために、部屋の整頓を何より大切にしていたはずだった。
目堂が通された二十畳の和室には、中央に座卓と座布団が置かれていた。部屋の隅に仏壇があった。扉は閉められていた。周りに菊やリンドウの花束が、大小様々な壺に活けられている。裏返された黒い額縁が紐で束ねられていた。がらんとした部屋に、その一角だけが雑然としている。閉ざされた仏壇の前では、花は野次馬のように見えた。
悄然と目堂は俯いた。違和感を振り払うよう頭を小さく振るう。後輩自身は至って健康そのものに見えたではないか。何を疑うことがあるのか、と自身を責めた。
ちょうどそのとき、襖が開いた。後輩と、その後ろから妻と思われる者が部屋にはいってきた。後輩の妻は盆に急須と湯飲みを載せていた。二人は座卓を挟み、目堂の正面に座った。後輩は茶を注ぎ、朗らかな笑みを浮かべた。
「これは僕の連れ合いで……」
と紹介を受け、目堂は後輩の妻へ会釈をした。そして後輩へはニヤリと笑って
「惚気話を伺いに数年ぶりに」
と茶化した。後輩は
「いやですね、そう僕を責めないでください。これでも一番に知らせたのです。誰よりも先に来てもらおうと手紙を出しました」
と言うので、目堂は頷いた。後輩は
「ありがたいなあ」
と隠しもせずに照れた。
目堂は後輩に甘かった。他人であるから何であろうと構わないという放任が、目堂と後輩の間にはあった。世間一般には許されざることも、目堂からすればどうでもいいことである。後輩は今日まで何も言わずに姿を消していたが、それも些末なことだった。どのような形であれ姿を見せたのだから、縁があるならまた交流を深めればよいだけだ。
後輩は目堂が促すままに惚気話を堂々と始めた。
「心根のたおやかさが何よりでして。僕が朝に弱いのはご存知でしょう。妻は毎朝、起こしにやってきてくれるのですよ」
世話の焼ける奴だな、と目堂は思った。人を起こすのも、自分が寝ているところを起こされるのも御免である。だが後輩にとっては、幸せな暮らしの例なのだ。
「障子を開けると、朝陽が妻の背後からさあっと入ってきます。この時期は特に、その瞬間の美しいこと……こういうことを言うと気恥ずかしいのですが……ああ、生涯で一度は妻の自慢をしたいと思っていました」
後輩は目を何度かきつく瞑った。
「僕の家族はすこし理解がないので、分かってくれそうな人にどうしても聞いてもらいたかった……」
後輩は口元を僅かに歪ませ、膝を落ち着きなく拳で叩いた。目堂は
「そうか」
と相槌を打った。後輩はぱたりと腕を下ろし、顔を横に座る妻の方へと向けて
「なあ、いつもありがとう」
と言った。
目堂は眼前でほとばしる愛の熱量に咽せそうになりながら、後輩の妻を見遣った。
後輩の妻は身じろぎもせずに座っていた。膝の上に、粉をはたいたように白く、細かにひび割れた粗のある掌を重ねている。黒い着物の袖に、あかぎれの手は痛々しかった。目堂は後輩の妻の襟元を見た。そして面を見るべく、顎を上げた。生白い首は太刀魚のように長く、どこまでもキリがなく、見上げても尚、天井の梁を越え、暗がりへ失せている。
うふふ、と後輩が笑い声をあげた。目堂は反らしていた首を戻した。後輩は耳を赤らめ、頭を掻いていた。
「僕は果報者です」
と後輩が言った。横で妻が、クツクツと喉を鳴らした。何かの発作を起こしたかのような、不穏な微笑いの痙攣だった。
愛の通い合う者同士の姿は心が安らぐ。目堂は震えそうになる膝を抑え、胸元にあたたかな心地を吹き起こそうと、夫婦と一緒になって笑った。